見出し画像

睡眠障害


私は、ピアノを弾くのが大好きで、音楽の道に入った。

ここ30年、地元の子どもたちを中心に、ピアノ教室を展開しているわけだが、

ここ5年くらいで、教室のあり方が、大変化をしようとしている。


わたしには、20歳の娘が一人いる。ASD、自閉症スペクトラムの子だ。

娘が10歳の時に、娘のパパとはお別れをして、母子家庭となった。


学校でもいじめがあり、「みんなと同じ中学には、到底怖くて通えない」という娘の気持ちに寄り添い、

「中学受験」をすることになった。

でも、とはいえ母子家庭、しがない稼ぎしかないピアノの先生の娘は、「公立中学の受験」を余儀なくされた。


しかし。


受験を一人で乗り越えるなんて、到底無理。

近所の塾に、手あたり次第、体験入学を繰り返した。

でも、どこにも必ず、「同じ小学校の生徒」がいるもので、

娘は、そういった塾には、絶対行きたくないといった。


とある市内の塾で、「四谷大塚」の模試を受けて、その結果の出たとき、そこの塾長先生に相談をした。

バスで通うことを想定しても、その塾まで、どうもがいても1時間はかかる。通い続けるのは難しい、と、塾長先生は判断された。

そういった配慮のあるところが、娘には気に入って、

4年生の終わりから、その塾にお世話になった。


塾には「宿題」がつきもので、私なんかが見てもわからない、つるかめ算だとか、難しいことわざだとか、教えてやることができなかった。

学校の宿題もあるし、就寝時間は、毎日12時を超えた。


そして、起きれなくなった。


何とか起きて、4時間目、給食の時間が近いころに、やっと教室にたどり着くと、

「何しに今頃来たん?」

と、鋭い目つきのクラスメートが、容赦なく嫌なそぶりを見せる。


だんだん、行かなくてもいいや、いや、行きたくない・・・

という後ろ向きな気持ちが、「睡眠障害」へといざなった。


画像1

まだ、そのころは、発達障碍があるのはわかっていなかった。現在20歳である。10年前は、まだ、発達の概念が、今ほど浸透していなかったし、私も無知であった。

ただ、うつ病で自殺行為を繰り返すパパのことが怖くて、爪を噛み始めた小3の時から、療育センターで児童精神科のDrには、診てもらっていた。

その時には、「発達障碍」の疑いは、まったく指摘されずにその先生とはバイバイした。

希望する中学には入れず、どこの学校の制服採寸にもいかず、深夜に寝て夕方起きる生活が続いていた。

引っ越しをして、みんなの知らないところで学校生活を始めてはどうか、とか、私は娘に様々な提案をしたが、そんなことはどうでもよくなっていた。

昼夜逆転により、精神状態もしんどくなっていて、

生きているのがしんどい、という風に見受けられていた。


そんな中、見かねた塾長先生が、私立の案内をしてきてくれた。

授業料が、とてつもなく高い。そして、入学時に払うもろもろの経費が、うちではどうにもならない。

娘は、学校の見学に行くといった。

そして、魅力たっぷりの私立のかわいい制服と、案内していただいた先生のやさしさ、そして、何より「入れそう」な感じ満載で、二日後、入試を受けて、合格した。


這うようにして3か月、学校に通った。

私も送り迎えを余儀なくされ、娘中心の生活が続いた。

大好きな音楽に囲まれ、高校生と一緒にオーケストラを堪能し、先輩からもめちゃめちゃかわいがってもらえた。

オーケストラの定期演奏会、弦楽器を初めて手にして3か月、2曲弾けるようになり、2曲は舞台に乗ることができた。

しかし、そのころ、娘の精神状態と、体の状態はピークに達し、

定期演奏会がすんでから、起きられなくなった。


児童精神科では男性の先生に診てもらっていた。

中学生になり、父親不信、そして、それが男性不信にもつながり、次に見てもらうんなら女医さんがいいというので、

福祉の担当者さんに聞いた女医さんのいる病院を予約して、連れて行った。


2か月の入院生活になる、と言われた。


私も、無我夢中の母子家庭生活で、ちょっとクールダウンできたかな?と思える、娘の入院生活だった。

久々に、必死で働けた。

2か月がたち、娘は退院してきた。

病院では結局、睡眠のリズムは整わなかったので、退院しても学校には行けず、家で私と夜に会話をするくらいで、入院中と大して変わらない生活が続いた。

それから、入院中に行った、数々の心理検査の結果が出始め、

単刀直入に、「発達障碍です」と、告知された。


当時の検査結果では、「アスペルガー症候群」と言われた。

今はそのような診断は、下りない仕組みになっているので、ASD、自閉症スペクトラム、と、大まかなくくりがなされている。

いろいろ勉強していくうちに、発達障碍の子供は、睡眠障害に陥りやすいことが分かった。

睡眠外来、と標ぼうされている病院にも、片っ端から行ったが、一向に改善される方向は見いだせなかった。

そんな時、NHKのEテレで、睡眠障害を扱う番組を取り扱っていた。

その病院には、全国から睡眠に問題を抱える子どもたちが、入院、通院でやってきているということらしい。

次の日、さっそく病院の予約をとった。兵庫県にある、とある公立の病院だった。


それから1か月後、運よく予約がとれ、おりしも自分の父親の葬儀の次の日に、神戸まで初診を受けに行った。

詳しい治療内容は、書くほどでもないが、また、別の機会に書こうと思う。


その日から3年して、やっとなおったかなぁ・・・と、思えるようになった。

今でも娘は、油断をすると起きれないからだだ。


そんな、親子ともにつらい障害には、もう、だれにもなってほしくない。

そんな思いで、私のピアノ教室のHPに、

「発達障碍の子供を積極的に受け入れる教室です」

と書き込んだ。


現在、生徒さんのほとんどは、発達障碍児として生まれ、たくさんの生きづらさを抱えている子供たちになっている。

もう、ピアノの先生だけでは収まらない。

おんがくを通して、子供に生きる「強み」を身に着けてもらうための療育を施すセッションを日々行っている。


生活のリズムを崩さないことがどれだけ大切か、

栄養のバランスに気を付けて、いかに偏食させないか、

お日様の光を浴びることがどれくらい重要か、


レッスンの合間を見ては、お母さんに伝えている。


ピアノ以上、音楽以上に、大切なことを伝えるピアノ教室として、

最近頑張っている。


いつの間にこんな教室になったのだろう・・・


でも、私の自慢の教室であり、

私の自慢の、かわいい生徒がたくさんいる教室である。


そんな教室を生み出してくれた娘に、敬服したい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?