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【日本3大水城】高松城/日本100名城

こんにちは。
はったんと申します。

今回は香川県にある高松城について記事をかいています。

私の出身地が高松であること、そして高松城が意外にも徳川家との関係が深いことから今回の記事を書くことにしました。

ちなみに私が高松城を訪れた際の動画をYouTubeにて投稿しております。
興味のある方はぜひご覧下さい。
https://youtu.be/zQS-gMDCbuY

〇高松城の概要


高松城は別名「玉藻城」とも呼ばれています。

高松市民の方々にはこの名前の方が浸透しているかもしれません。

玉藻城の由来は、万葉集にて柿本人麿が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」読んだことで、玉藻城周辺の海が玉藻の浦と呼ばれていたことから来ています。

高松城は天正15年(1587年)、生駒親正によって築城されました。
※縄張り(設計)は築城の名手として名高い黒田孝高もしくは細川忠興が行ったとも言われています。

瀬戸内海の海水を、外堀、中堀、内堀に引き込んでおり、日本三大水城の1つといわれています。
ちなみに、残りの2つの水城は愛媛県の今治城、大分県の中津城です。

お城は時計回りに二の丸、三の丸、桜の馬場 西の丸が配置され、三重の堀の構造となっております。

高松城は当初、生駒家によって治められていました。

しかし、生駒家4代高俊の時代に生駒騒動が勃発。
この騒動が原因で生駒家は讃岐から出羽国(秋田県)矢島一万石に転付されます。

その後、高松城の藩主として入場したのが松平頼重です。
頼重は徳川家康の孫で水戸光圀の兄でしたので、徳川家の近親者です。

そのため、中四国の監視役を命ぜられていたと言われています。

〇高松城でのオススメ3選


艮櫓(うしとらやぐら) 【重要文化財】

艮櫓は元々東の丸の北東にあった櫓です。
昭和40年に当時の所有者の旧国鉄から高松市が譲り受けて、現在ある場所(旧太鼓櫓跡)に移築されました。
当時は北東の方角を丑寅と読んでいましたので、艮櫓と名付けられました。

櫓の構造は三重三階、入母屋造、本瓦葺(ぶき)で初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。

高松城は天守閣が空襲で焼失していますので、現存する三重三階の艮櫓は、高松城の見所の1つと言えるでしょう。

桜御門 

桜御門は三の丸入口にある櫓門です。

門には藩主の在籍や節句などの行事に合わせて三種類の幔幕が掛け替えられていました。

残念ながらこの門は1945年の高松空襲で焼失してしまいましたが、令和4年7月に復元されました。

2階はちょっとした展示場となっており、土・日・祝日の午前9時から午後4時まで入場可能です。

2階からは桜の馬場が望め、門の真下ものぞき込むことができます。

また、体験コーナーや復元の様子を展示した映像も流れていますので、お越しの際はぜひ立ち寄ってみてください。

月見櫓、渡櫓、水手御門 【重要文化財】

月見櫓は延宝4年(1676年)ごろに北の丸の隅櫓として作られたと言われています。

城に出入りする船を監視する役割と江戸から帰ってくる藩主を望み見たこともあり、着見櫓とも呼ばれています。

構造は艮櫓と似ており、総塗籠造りの三重三階、入母屋造、本瓦葺で初重は千鳥破風となっていますが、二重は唐破風となっており、屋根の形が対象となっております。

渡櫓は生駒氏時代の海手門を改修して建てられたものになり、こちらの櫓も海手出入りの監視の役割があったとされています。

隣接している水手御門は海の大手門の役割をしており、藩主はここから小舟で海に出て、沖で御座船に乗り換えていました。

また、海城であった高松城では水泳も盛んだったようです。

松平家5代藩主の頼恭は在国の年になると、この水手御門から現在の西門の北側まで泳がれたと伝わっています。
※松平家が残した水術「水任流」は高松市無形文化財1号に指定され、現在まで継承されています。

これらの施設は他の山城、平城ではお目にかかれないものですので、非常におすすめです。

〇その他の見所


披雲閣【重要文化財】

松平時代に藩の政庁および藩主の住居として使用された建物です。
この建物には142畳ものの大書院や雅趣を活かした部屋が幾つもあります。

披雲閣には昭和天皇・皇后両陛下もご宿泊なされたことがあるようです。
残念ながら平時は一般公開されておりませんが、お茶会や生花展などのイベントの際は入場することができるようです

披雲閣の北側には庭園も広がっています。

庭園には沢山の松が植えられており、披雲閣や石橋とマッチしてとても風情が感じられます。
大正時代に瀬戸内海の一大建造物とも言われた披雲閣にぜひ立ち寄ってみて下さい。

天守

高松城の天守閣も見てみたいと期待されている方々もいらっしゃると思いますが、残念ながら明治17年(1884年)に老朽化を理由に解体されており、天守台しか残っていません。

高松城の天守閣は、存在していた当時四国で最大のものだっただけに、見ることができないのが非常に残念です。
※高松城内にある陳列館には天守閣の模型やケンブリッジ大学から発見された明治15年に撮影された天守閣が残っている高松城の写真を見ることができます。

天守台自体は改修工事がなされ、現在ではお城を360度見渡すことのできる展望台となっております。

天守台からは桃太郎で有名な鬼ヶ島(女木島)を望むこともできます。

天守閣が現存していれば、より素晴らしい景色が見れたかもしれませんね。
桜御門や天守台のようにいつか復元されることを願っています。

乗舟体験

高松城では内堀で乗船体験をすることができます。

上記でも記載したように高松城のお堀には海水を引き込んでいるため、海の魚が生息しています。

運が良ければを見ることができるかもしれません。

私が訪れた際は営業時間が終了しており体験できませんでしたので、いつかリベンジしたいですね。※12月~2月は乗舟体験できないようです。

海城のお堀内に入れる珍しい体験ですので、時間に余裕のある方はぜひ!

〇入場料、アクセスなど


入場料
大人 200円 小人100円

乗舟体験料金
大人 500円 小人300円
※乗船時間30分
※12月~2月は運休

アクセス
高松駅から高松城西門まで 
  徒歩 約5分
高松築港駅(ことでん)から高松城西門まで
  徒歩 約2分
高松駅から東門(大手門)駐車場まで 
  車 約3分 徒歩 約15分
 ※駐車場は東門側にございます。 

〇おわりに


今回高松城に関する記事を書いてみて、高松は徳川幕府との関係が深い地である事がことが分かりました。
上記でも記載したように、松平初代藩主の頼重徳川家康の孫であり、水戸光圀の兄です。
(※水戸徳川家と高松松平家とは養子縁組が繰り返し行われていたようです。)

また、松平家は徳川家譜代筆頭の井伊家とも深い関係性があります。

松平家と井伊家は大名や旗本が将軍に謁見する殿中席において、最も将軍に近い席である溜詰(たまりづめ)の格付けにありました。

このことから、両家が将軍を守り、幕府の体制を支える立場であったことが分かります。

さらに、松平家の第11代藩主頼聰(よりとし)は、彦根藩主であった井伊直弼の次女・千代姫を奥方として迎えております。
(※このご縁もあり、高松城と彦根城は姉妹城縁組みを結んでいます。)

ここまで徳川家と深い関係性のある藩が西日本、しかも四国にある事に驚きを隠せません。

皆さんも徳川家とゆかりのある高松城に訪れてはいかがでしょうか?

最期まで読んでいただきありがとうございました。

〇補足(用語)


隅櫓
曲輪にある土塁や石垣の隅角に建てられる櫓

総塗籠
軒下から壁に至るすべての露出部分を漆喰で塗り固めると

入母屋造(いりもやづくり)
上部が2方に傾斜し、下部が4方に傾斜した屋根をもつ建築工法

本瓦葺
丸瓦と平瓦を交互に積んでいく工法
※仏閣や寺社によくみられる

千鳥破風
屋根の流れ面につけられた三角形の破風のこと

唐破風
中央部が凸型、両端が凹型になっている曲線状の破風のこと


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