見出し画像

きっとそこは、誰かの”友達の国”

「何人?」

13歳になる年、入学した中高一貫校。そこで、入学当初繰り返された挨拶だった。

外国籍を持つ生徒、30名。海外に住んだ経験のある帰国子女、30名。
一般的(この言い方はあんまり好きじゃないが、簡単のためこうしておく)な日本人生徒、20名。

これが、私の過ごした中高一貫校、一学年の構成だった。

昔から、広い世界を見てみたい、という気持ちがあった。
自分のいる世界に、もしかしたらどこか息苦しさを感じていたのかもしれない。
10歳になってもホグワーツからの手紙が来ないことに、本気でがっかりした。
12歳のとき、その学校を母が新聞で見つけた。
家から片道1時間半かかる、その学校を受験することにした。

私はそれまで海外に行ったこともなく、一般枠での受験だった。
作文と面接、という判断基準のよくわからない選考方法であった。
20名の枠に230~240名が応募していた。高倍率だった。

「ペラッ」
よーい始め、の合図で紙をめくると、そこには、
「美しいと思うものについて書きなさい」
とあった。
とりあえず目立とう。
「ぴちょん、ぴちょん」
と擬音語を書き連ねたポエムをはじめに書いた後、
「私が美しいと思うものは自然である」
と自然の美しさについて延々と語った。
運命的に、ちょうど最後の言葉で最後の行まで、きっちり埋まった。
ほどなくして、
「やめ」
の声がした。

今思うとかなり恥ずかしいポエムのおかげで(?)合格し、晴れて芦屋国際中等教育学校という、兵庫県の公立中高一貫校に通うことになった。

母が新聞で、たまたま見つけたこと。
ポエムを書き、合格したこと。
偶然が重なり、中高の6年間を、そこで過ごすことになった。

6年間、そこにいたときは、そこが”普通”だった。
しかし、離れたら気づく。そこは、希少な環境だった。
わりとカオスだった。そして同時に、自然だった。

入学してから1か月ほどは、
「何人?」
という挨拶が繰り返された。
みんなが満足すると、その決まり文句は消えていった。

教室では、日本語も、英語も、中国語も、ドイツ語も、ポルトガル語も飛び交っていた。
日本語しか話さない相手とは日本語で。ポルトガル語がお互い話しやすいときはポルトガル語で。ときには混ぜこぜで。自然と、そうなっていた。

たくさん、知らなかった世界に出会った。
ベトナムでは、日本人家族はだいたい、プールのついているマンションに住んでいること。
香港ディズニーは絶叫系がたくさんあるが、日本に比べると空いていて最高なこと。
フィリピンでは赤ちゃんが道端で売られていて、可愛い子から売れていくこと。

たくさん、知らなかった悲しみに出会った。
「英語話して」とせがまれたこと。
バスに乗っていたら、英語で話しかけられること。
日本に帰ってきて、仲間外れにされたこと。

6年間を、80人でともに過ごした。
たくさん話した。
ぶつかった。
毎日、たくさんたくさん笑った。
違うのが当たり前。ひとりひとり違って、その80人でいることが、自然だった。

話は変わるが、2015年。
タイ、バンコクで爆弾テロ事件があった。
朝ニュースで見て、
「うわあ……テロか……」
と思った。
学校に着くと、友達が泣いていた。
タイに住んでいた時の家と、とても近い場所で起きた事件だったという。
なにも、かけられる言葉はなかった。ただただ、心が痛かった。
”どこか遠い国”で起こったことは、”友達の国”で起こったことだった。

今思えば、わりとカオス。
けれど、全然違う80人でいることが、自然だった。
誰が何人で、誰がどこの帰国子女で。そんなことは、どうでもよかった。
そして、どうでもいいけど、どうでもよくなかった。
”知らない国”は、”友達の国”になった。

長かったような、短かったような6年間が過ぎ、私たちはばらばらになった。
日本中に、世界中に、ばらばらになった。

たまの集まりで、SNSで、だれがどこで何をしているか、共有される。
なんとなくだけれど、やっぱり彼らがいる場所は心の中のあたたかい場所に保存されている。
どこか浮かび上がるような、そんな感じがする。
校長室前の、世界地図。国籍を持つ生徒がいる国は、印がついていたのを思い出す。

思い出せば、あの頃。
本気で、
「なんで戦争なんてするんだろう。私たちはこんなに仲が良いのに」
「私たちが、世界の架け橋になれる」
そう、信じていた。
私たちも、私たちを見守っていてくれた先生たちも。

「芦国みたいな学校がたくさんあれば、戦争なんてなくなるんじゃないか」
そう、口にしたこともあった。
友達のいる国、友達のルーツがある国は、
”友達の国”なのだから。

しかし、ニュースを見ていると、不安になることがある。
”友達の国”は、これからもずっと、”友達の国”であり続けられるのか。

世界中を、人が行き来する今。
こんな人は、きっとたくさんいると思う。
そこは、誰かの”友達の国”だ。

これからの長い人生。
誰かの”友達の国”が、”友達の国”であり続けてほしい。
ただ、そう願っている。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?