見出し画像

ひげじいちゃんと最後に会った日

母方の祖父が亡くなったと聞いたのは、妹からの電話だった。ずいぶん大人になったと思っていた彼女の声は弱々しく、絞り出すような声でつぶやいた「ひげじいちゃん、亡くなっちゃったって」という声は、未だに私の耳に残っている。

ひげじいちゃんは、その愛称の通り、立派な口ひげを蓄えた恰幅の良い肉体派のおじいちゃんだった。祖父母たちの中でもいちばん若い彼が最初に逝ってしまうなんて、誰も予想していなかったのではないかと思う。

突然の別れはちょうどコロナが猛威をふるい始めたての頃で、近くに住むごく少数の近親者だけでひっそりと葬儀は終わり、私や妹は最後のお別れに行くことも叶わなかった。母の妹から送られてきた写真には、大好きなジャイアンツのユニフォームを被せられ、子供の頃の私と妹の写真を抱きながら、白い花に包まれる祖父。もう触れることのない身体の上に置かれた、写真の中の幼い自分と目が合って、大切に想ってもらっていたことを実感する。

亡くなる2ヶ月前、思えばあれが最後に祖父と会った日ということになる。綺麗に雪かきされた駅までの道を二人で歩き、さっぽろ駅のデパートまでお寿司と焼き鳥(なぜか北海道では焼き鳥といえば、豚である)を買いに行くことになった。なんてことない、1時間ちょっとの散歩だったけれど、大人になってから二人きりで祖父とおつかいに行くのは初めてだった。

熊のように大きいと思っていた祖父はいつのまにか幾まわりか小さくなっていて、転んでしまわないように私は祖父の腕をしっかりと持って、雪の上をザクザクと並んで進んでいく。せっかくの機会だからと私は、祖父の仕事のことや出身のことなんかを色々と聞き、初めて祖父が雨竜で生まれたことなどを知った。

控えめで寡黙なタイプの祖父は私の質問に短く答えるだけだったが、駅までの道にある小学校で足を止め、こんな風に話した。

「ここ、な。昔、ソリば持って、よく遊びに来たしょ」

「うん、よく連れてきてくれたよね」

その小学校では、小山の上に雪を敷き詰め、子どもたちが思い切りソリ遊びをできるようにしてある。その日も全身モコモコの服を来た子どもたちが、甲高い声を上げながら顔を真っ赤にしてソリを滑らせており、昔は私と妹もこれに混じって雪国ならではの遊びを堪能したものだった。

「ここ、じいちゃんさ、仕事行く度に通ってな、あやちゃんたちのこと、思い出してるよ。毎日思い出すんだよ、ここで」

「毎日」のところを、ひげじいちゃんは、うんと力を込めて「まぁ〜いにち」と言っていて、それがなんとも愛おしかった。

亡くなってから数年経った今も、祖父からかけられた言葉を思い出すと心の奥がじわりとあたたかくなる。それは、もう私は小学生でも、ソリに乗るような歳でもないけれど、子どものように"ただ存在しているだけ"で誰かに大切に想われる、という実感を得られた言葉だからだと思う。

誰かの役に立たなければ評価されず、経済的成果を出さなければ喜ばれず、生産性を上げなければ価値を感じてもらえない。そんな場所も正直多い。

ちょうど仕事に疲れていた私の心に、祖父の言葉はしっかり沁みてしまったのだ。そしてあれが、ひげじいちゃんと最後に会った日。悲しいけれど、大袈裟ではなく、人生のお守りになるような時間をもらえたと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?