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私の半生兼自己紹介

 以前に最初に書いた自己紹介が少し堅苦しかったのと、詳細を省きすぎていたので、今回、改めて自己紹介を兼ねて私の半生を綴りたいと思います。

 1994(平成6)年、埼玉県さいたま市(旧大宮市)に生まれる。
 小さい頃は工事現場の重機が好きで、現場を通りすがると「ジャー」と呼んではしゃいでいたらしい。少し趣味が変わっているかもしれないが、小学校に進学しても電子工作が好きで、よく自分でパーツを買い集めてはんだ付けをして真空管ラジオを作っていた。ちょっとメカ好きの普通の男の子、という感じだった。

 中学校に進学した頃から歯車が狂いはじめる。
 中学校ではいじめられキャラだったが、今思えば鶏が先か卵が先かの問題で、いじめられたのが先か病気を発症したのが先か不明瞭なところがある。
 しかし、自分が自分でないような不快な感覚(俗に離人感と呼ばれる)に悩まされた私は意を決して両親に相談し、はじめて心療内科を受診する。なんと今から16年も前のことである。診断は解離性障害。加えて、今ではクソ食らえと思っているうつ病と睡眠障害の症状も見受けられるということで数種類の薬を処方されて飲んでいた。無論、クラスメイトにはそんなことは言えなかった。
 病気の進行と共に成績が急降下し、特にスポーツも得意でなかった私はパッとしない存在ゆえ差別とも受け取れる扱いをされることも多かった。そして3年生の時、ある女子生徒の冷酷な一言が決定打となって学校へ行けなくなった。朝、起きて学校へ行こうと思っても、透明な鎧を着させられているように身体が重たく、学校へ行けないのである。結果的に私は2か月ほど休んだあと学校へ復帰するが、欠席日数の関係で希望していた公立高校へは入れなかった。
 
 それでもある私立高校が私のことを拾ってくれたので、私はその高校に進学して、文武両道で部活(運動部)と勉強の両方を頑張った。とにかく中学校での遅れを取り戻したい一心で、がむしゃらに頑張っていた記憶がある。

 現役で大学に合格した私は舞い上がっていた。しかし、順風満帆な人生とは無縁なのか。今で言う完全なる「ぼっち」で、自分としてはその大学は少し背伸びをしすぎたのか講義も難しくついて行けなかった。要するに大学生活に馴染めなかった。
 そして私は再び心療内科にかかる日々になった。今度は非常に強い希死念慮に襲われるようになって、何度も自殺未遂をした。今思えば、適応障害だった気がしてならない。  
 
 そしてここから、現在に至るまでのどん底の20代がはじまる。
 せっかく入った大学に馴染めなかったことで自暴自棄になっていた私は、煙草やパチンコなど大人の遊びを覚えて自堕落な生活を送るようになっていた。勉強は一切しなくなって、コンビニ、百均、ホテル、工場、一般事務など職を転々とした。借金をして苦しんだ。とにかくお金がなかった。両親との関係も悪化の一途を辿っていた。ニッチもサッチも行かなくなった私は新興宗教のようなところに顔を出すようになって、そこでも多額のお金を使ってしまった。

 極限まで精神的に追い詰められて外で暴れる、大声で叫ぶなど奇行の目立っていた今から3年前の2021年、精神病院に強制入院となる。3か月近くに及ぶ長い治療で私は落ち着きを取り戻し、就労移行支援事業所に通うようになって現在(30歳)に至る。

 長くなりましたが、私の半生兼自己紹介です。

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