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宮崎駿『君たちはどう生きるか』の最も本質的な感想


宮崎駿の遺作となる可能性が高い新作『君たちはどう生きるか』を観てきた。ネタバレが嫌な方は戻るボタンへGO!






というわけで。
感想。


最も本質的な感想と書いているのだが、そう書いている以上一言で言い切ろうと思う。


マザコンかつロリコンで、セキセイインコに何らかの恨みがある偏屈な爺が、これまでに見てきた夢を濃縮した映画。



宮崎駿の母は6歳のときに結核にかかり9年間寝たきりとなる。その影響があるのだろう。母宮崎美子さんは71歳で没するが、6歳から15歳の間、母を失う不安が常にあったのだろう。宮崎作品においては、母の不在、母の病気というモチーフがしばしば現れる。

『となりのトトロ』
サツキとメイの母は大きな病院に入院している。

『風立ちぬ』
ヒロインであるが菜穂子が結核を煩っている。

『風の谷のナウシカ』
母が出てこない。代わりにナウシカは、巨神兵にオーマという名を与えて母になる。ナウシカは、ジブリ作品では珍しい「乳が大きい」という身体的特性を持っていて、これは母性を表していると各所で言われている。

『もののけ姫』
昨日たまたま見たので記憶に残っているのだが、胸の谷間が強調されるのはたたら場のお母さんだけ。といいつつ、子どもはほとんど出てこないし、女性陣も売られていた娘らしいので母はいない。母が一人も出てこない作品かもしれない。

ロリコンについてはあまり詳しく書かないが、それはもう確定的事実といっていいと思う。宮崎駿にとって、乳が大きい女性は母性であり、乳が小さい女性は可愛い存在(もしくは恋愛対象)という風に区別されている。

そういう意味で『紅の豚』においては、未亡人であり色気あるマダムジーナと17歳のフィオ・ピッコロの間で、主人公ポルコの心が揺さぶられる作品だといえる。

カーチスに勝利して、マダムジーナと大手を振って付き合えるはずなのだが……、豚の呪いを解いたのはフィオのキスであった。

フィオは17歳なのでロリコンというと少し違和感があるのだが、それは、キスというモチーフを描く必要性や、世界観に合わせると、ある程度の年齢があったほうが望ましいためではないかと思う。

検索して調べてみたのだが、そちらの世界だと15歳以下ではないとロリコンというカテゴリーではないらしい(真偽は不明だが)。とすると、フィオはロリコンという定義からすると範囲を外れしてしまっているためにポルコは戸惑ったのかもしれない。

『カリオストロの城』のクラリスは16歳なのでギリギリアウトかもしれない。だから、ルパンはハートを盗むだけで去って行った……のかもしれない。

以下、何かを察してしまう宮崎作品の女性キャラクターと年齢。

メイ 節子 4歳
ポニョ、宗介 5歳
千尋 10歳
サツキ 12歳
シータ、パズー、キキ、初登場菜穂子 13歳
月島雫 アリエッティ 14歳
サン 15歳

ーーーーーーーーーーーー疑惑の壁ーーーーーーーーー

ナウシカ 16歳
フィオ、アシタカ 17歳
クシャナ 25歳
リサ(宗介のママ) 25歳
ハウル 27歳
ムスカ 28歳
ポルコ 36歳
(マダムジーナは年齢不詳ながらポルコと同年代)
みんな大好きユパ様 45歳
ドーラ 50歳
乙事主 500歳
大トトロ 1302歳

ジブリマニアではないので漏れなど多数あると思うが、上記のようにヒロイン級のキャラクターは、ほとんど15歳以下となっている。例外がナウシカとフィオである。

フィオの場合には、マダムジーナが36歳とした場合、二項対立する必要上、「しっかりとした大人の魅力」vs「大人になりはじめた女性の魅力」とする必要があったのかもしれない。例えば、フィオが8歳であった場合には、36歳の恋人には不釣り合いであるため、その場合にはポルコの年齢を10歳にする必要がある。そうするとアドリア海の飛空挺乗りというテーマとミスマッチになってしまう。だから、フィオはギリギリセーフの17歳なのだろう。

『となりのトトロ』においては、サツキとメイの入浴シーンがあるのだが、現代のモラルコードだとアウトになる可能性がある。実際に、海外の視聴者からは、これはアウトだ、ペドフィリアを誘発するなどの声もあるそうです。

ただ、宮崎駿がそういう意味で描いたのかというとそうではなくて、『温泉批評』の混浴特集を読んでいたときに、東北の当たりでは一族みんなで混浴する文化があったのだとか。そこではいい年の娘も一緒に入るのが当たり前だったと書いてあった。

宮崎駿の恋愛感覚は所有欲や征服感ではなく、一緒に生きてくれることに対する安心感、幸福感なのだろうと思っている。

それが、宮崎駿が得られなかったものなのだ。6歳から15歳の間、ずっと母の死に怯え、一人で生きていかねばならないことを突きつけられていた宮崎駿の人生なのだろう。

だから、ペドフィリアとの親和性があったとしても、そういう断罪はよくないと思う。それに宮崎駿は、偉大なる作品に昇華することができる作家である。

『君たちはどう生きるか』という作品は、若返った母と再会して、共に冒険を繰り広げ、義母を取り戻しに行くというストーリーである。

母=ヒミを失い、新たに義母=ナツコを得るが喪失感が大きく、しかし、実際に喪失してしまうとそのままではいられなくなり、若返って復活した母ヒミと「おばあちゃん=キリコ」の助けで義母ナツコを取り戻し、義母が「母=ナツコ」になる話である。

それはつまり、宮崎駿が、亡き母への執着を断ち切り、現実と向き合うことをついには選んだ作品だと言える。

最後のシーンで、眞人=宮崎駿は、母であるヒミと同じ時代へと帰っていく選択ができたはずだ。ヒミの年齢は推定14〜15歳くらいである。つまり、ヒミは、母であり恋人でもあるという宮崎駿にとって最高の女性なのである。

そして、マルチバース的、多次元的異世界からは、母ヒミが生きているマルチバースへと共に進んでいくことが可能であった。つまり、母と同年代として共に生きていくことができたのだ。

しかし、眞人=宮崎駿は、ヒミと行くことを選ばず、自分の世界へと帰っていった。

そこのは義理の母であるナツコがいた。
そして、友達であるアオサギもいる世界だ。

本来自分のいるべき世界。
母のいない世界。

寂しく、切なく、喪失感が大きな世界。
どうしてそんな選択ができたのだろうか。

本来であれば、ヒミと共に戦前の日本に戻り、不思議な大冒険を繰り広げるのが宮崎駿のはずである。

『天空の城ラピュタ』はそういうモチーフだと考えることもできるし、『風立ちぬ』はまさしくそんな話である。しかし、そこには母であり恋人である菜穂子の喪失という悲しいテーマも含まれていた。しかし、それでも宮崎駿は創作と向き合うしかなかった。彼の人生にはそれしかないのだ。

どうして、宮崎駿が母とさよならができたのか。

それは、母と再会できるからだ。

もう宮崎駿の人生は長くない。

命が尽きた後、夢の世界で母と再会することができる。マルチバースの世界で、二人とも15歳になって、再会することができる。そう悟っていたのかと感じて切なくなってしまった。

しかし、夢の世界は、憎きインコによって崩壊してしまった。

インコたちはセキセイインコと言われていたが、他の種類もいたように思う。赤いやつは、Austrarila King parotのような気がするし、王はキバタン Sulfur crestedのような気がする。

途中出てくるペリカンも含めて、邪悪な鳥はみんな外来種である。つまり異国の鳥、異世界の鳥である。自分の世界の鳥はアオサギだけなのだ。

アオサギと共に自分の世界に帰っていく。
夢の世界は、憎きインコが壊してしまった。

ということは、やっぱりお母さんとは再会できないのだ。
現実を生きていくことしかできない。
そして、もう死んでいくしかない。

でも、この世界はアオサギがいる。友達がいる。だから、残り人生はせいぜい楽しんで生きようかな。

というところだろうか。

この作品は宮崎駿からの最後の挨拶であった。

感想としては、率直にいうと「全然面白くなかった」。美術館的であり、観る者の解釈に頼る部分が多く、主人公の葛藤もわかりづらく、また、カタルシスも小さい。常に意味不明であり、その意味を解説するだけのやる気もない。

しかしながら、宮崎駿という作家のアイデアはすべて開示された。彼が得意とする、異世界、神話的な世界との交流方法を、動画としてどう処理するかについては、ほとんど「参考書」といえるレベルで教えてくれている。

作品はこうやって作るんだよと宮崎駿が教えてくれたような気がする。


我々が生きている世界は平坦ではない、必ずその裏には精神的な立体が存在している。目をこらすとトトロはいるし、コダマもいるし、ホウキで空を飛ぶこともできる。

宮崎駿がいなかったらもっとつまらない世界を生きていたことだろう。宮崎駿がいなかったら、ぼくはサッカーのことを書いてもいなかったかもしれない。

正直遺作はつまらなかったよ。でも、僕は何度も観ると思う。
そして、ぼくも、最後の作品は同じことをしようかな。


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 約束の時間になり、知人と合流し、国立競技場へと入場した。既に日は落ちて暗くなっていた。荷物検査のブースを抜けて、チケットの半券を切られ、薄暗い通路を歩いた。そして、観客席へと続くゲートを抜けた。

 目の前に光り輝く空間が広がっていた。

 大型の照明が強い光を放って緑色のピッチを照らし、濡れた芝生が瑞々しく輝いていた。小雨が降っていたせいで、ライトの周りは霧がかかったようにぼんやりとしてみえた。

 この風景目にすると同時に、風邪がビューッと吹き抜けていった。胸が小さく鳴った。映画『千と千尋の神隠し』の冒頭で、千尋と両親が不気味な狭いトンネルをくぐり抜けたシーンを思い出す。スタジアムの内側は、外の世界とは全く異質の空気に支配されていた。

拙著『サポーターをめぐる冒険』(ころから)の冒頭シーンより

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「この世は夢 我が王国へようこそ
旅客機 これは私の夢だ」

「爆弾の代わりにお客を乗せるのだ」

「飛行機は戦争の道具でも商売の道具でもない。
飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与える。」

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「まだ風は吹いているか日本の少年よ!」

「はい、まだ風が吹いています。」

「では生きねばならん!」

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「まだ風は吹いているかね?」

「はい、吹いています。」

「設計で大切なのはセンスだ。センスは時代を先駆ける。技術は後からついてくる。」

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「空を飛びたいという夢は呪われた夢である」

「ぼくは美しい飛行機を作りたいと思っています。」

「ブラボー 美しい夢だ。創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」

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『風立ちぬ』の夢の世界に登場する設計家カプローニと交流するシーンである。このやりとりに感動して、ブログに記事を書いたのがちょうど10年前。

センスは10年。創造的な人生の持ち時間の間、ぼくは必死で駆け抜けた。馬鹿にされることも多かった。お金を作れなくて悔しい思いばかりした。それでも、ぼくは、サッカーと、サッカーと共に生きていく人々をテーマに選び、向き合い続けた。

センスは10年。ぼくの10年はどうだっただろうか。まだ成果は出ていない。まだ何も成し遂げていない。しかし、10年間、センスを伸ばすことはできた。宮崎駿のおかげで、32歳から42歳までの貴重な10年間を失わずに済んだ。

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「やぁ、来たな、日本の少年」

「ここは私達が初めてお会いした草原ですね」

「我々の夢の王国だ」

「地獄かと思いました」

「ちょっと違うが、同じようなものかな。
 君の10年はどうだったかね?力を尽くしたかね?」

「はい。終わりはズタズタでしたが」

「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは。美しいな。良い仕事だ」

「一機も戻って来ませんでした」

「往きて帰りし者なし。飛行機は美しくも呪われた夢だ。大空はみな飲み込んでしまう。君を待っていた人がいる」

「あなた。生きて。生きて!」

「うん。うん。」

「行ってしまったな。美しい風のような人だ」

「ありがとう…ありがとう」

「君は生きねばならん。その前に、寄っていかないか?良いワインがあるんだ。」

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2013年9月に書いたこのブログ記事。

その直後に書いたのが20万PV以上を記録し、ぼくの運命を変えた記事。

5回以上印刷して、直しを入れながら仕上げた。
かかった時間はちょうど10日。


物書きは何年経っても自分の言葉に縛られる。だから、嘘はついてはいけない。全力でないといけない。ごまかしなど一切通用しない。

実力をつけないといけない。どこへいっても戦えるような本当の力を。

そして信念を持たないといけない。どんなときも折れない信念を。たとえ世界中が敵に回って、銃を持ったやつがドアをドンドン叩いていたとしても、自分が書くべきテーマを書き続けるのだ。

『君たちはどう生きるのか』

僕はマザコンでも、ロリコンでもないし、インコに恨みもないけど、僕は僕の世界を作って行こうではないか。

最後に10年前の自分自身の言葉を引用しよう。

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「創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」

自分のセンスを伸ばすために出来ることはなんでもやろう。10年を必死に生き抜こう。10年というのは一つの喩えであって、人によっては5年だったり20年だったりするだろうと思う。しかし、限りがあるという意味では全員同じだ。

ぼくの持ち時間が後どのくらい残っているのかはよくわからない。しかし、全力で生き抜かねばならぬ!!

ぼくには夢があるし、やりたいことも山ほどあるのだ。夢を恥じている時間もないし、堕落している時間もない。必死に、全力で追い求めないといけない。この作品に出会えて良かった。本当に良かった。宮崎駿と同じ時代を生きていることが出来て本当に良かった。

自分の10年が終わったら、今度はワインでも飲みながらこの映画を見ようかな。その頃にはきっと良いワインが買えるようになっていることだろう……

2013年9月 中村慎太郎

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良いワインはいまだに足りないが、同じ世界で頑張り続けている。ぼくのテーマは必ず多くの人を幸福にする。

だから、生きねば。

だから、書かねば。

誰が風をみたでしょう ぼくもあなたも見やしない
けれど木の葉を震わせて 風は通り抜けていく
風よ翼を震わせて あなたのもとへ届きませ

さよなら
偉大なる宮崎駿さん
あっちでは14歳のままでいられるといいね。

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