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君たちはどう生きるか 感想

最初に言っておくと、ジブリは見てないやつもそこそこあるし、トトロと千と千尋以外はあまり記憶が定かじゃないくらいの私が見に行った感想なので、そんな深い考察とかはしてないです。ハヤオに関する知識がもっとあれば感じられるものも変わったのかも。ごめんねハヤオ。
事前知識なしの素直な感想をメモしておくだけのnoteです。

ネタバレ注意!

うろ覚えのネタバレが多数あるので、見てない人でネタバレ踏みたくない人は…帰ってください

ブラウザバックはもう死語かなと思って、ほかのもので言い換えようとしたんだけどめちゃくちゃ冷たい人みたいになっちゃった!なんていえばいいんだ やっぱ帰らないで 目をつぶってていいから最後まで一緒にいて

全体について

賛否両論あるらしいけど、個人的には面白かった。
寝てる間に夢を見てるときって、風景がどんどん変化して、唐突に話も変わるんだけど、不思議と整合性が取れてるように感じる。それと同じような感覚に陥って、他人の思考の濁流に身を任せてしまっているような感じがなんだか心地よかった。

(大体の映画はそうなのではというのはさておいて、)描写の一つ一つに意味があるくらいには情報量が多くて、それらに詰め込まれたすべてを感じ取ろうとすると少し見るのに疲れたけど、それは私の映画鑑賞力(ぢから)が足りてないからかもしれない。

ただ、途中何通りか解釈が考えられるようなシーン――なんで自分で頭殴ってケガしたのか――とかがあって、そういうのの"正解"が気になっちゃうと先に進まれるのが辛いかも、と思った。自分なりに落とし込んで進まないとあっという間に置いていかれる。ハヤオワールドで流れる時間は恐ろしく速い
頭殴ったあれ、なんでだったんですか?"正解"を知ってる人は教えてください。

個人的には、あれは「新しい母親や仕事などに夢中になって、元の家族から離れていくように見える父親に構ってほしかった」という、寂しさが悪意の形を取った結果だと思ったけど、一緒に見た母親は「学校行きたくなかったんじゃない?」と言っていた。それも話の流れ的には自然なような気がするし、仮病は悪意の一種でもある。でもそんなことであんな思いっきり自分のこと殴れる?いや事の重大さは人それぞれか。う~んわかんない。
ちなみに私はどう森にハマりすぎた結果、仮病で一週間学校を休んだことがある。…理由がしょうもなさすぎる上になんの痛みも代償も払ってないから、一緒にはできない。「わかるわかる!」とか言ったら普通に殴られるどころか脳天をカチ割られそうだ。

家族というもの

一つ、特に印象に残ったシーンがあった。
産屋で眞人が「夏子さん!…母さん!…夏子母さん!」みたいに呼ぶところ。
あそこで夏子さんの心のわだかまりが解消したわけなんだけど、ギリギリ21世紀生まれの私的には、そもそも妻を亡くした直後にその妻の妹と結婚して、しかももう妊娠してるっていうのがもうグロシチュなわけで、主人公のそのセリフもすぐには呑み込めなかった。

彼はすっかり物心もついていて、心理的に受け入れられるかは別としても、諸々の事情はきっと分かっている。戦争の真っただ中で、家を存続させるのが大事なのであって、亡くなった直後なのに薄情!とかそういう現代の感受性を持ち込むのはナンセンスだ。それにしたって、まだ子供なのに、随分物分かりがよすぎないか?と…。

あんなに実母のことを引きずっていたのに、あのピンチの局面でぱっと切り替えて「母さん」と呼べるのすごすぎる。
彼が「君たちはどう生きるか」を読んだことをきっかけに(?)、徐々に善性に目覚めたとしても、あそこで母さんと呼べるようになるのは、私にとっては少し唐突で面食らった。

眞人があの本を読んだ後に夏子さん助けに行ったのってそういう描写だよね?一瞬すぎてそんな重要だと思えなかったけど、わざわざタイトルになるくらいだからそういうことなのかなと…。
駄目だ、ちゃんとこうやって全部拾おうとすると現代文の問題みたいになってくる。こんな考察もどきみたいなnoteになる予定じゃなかったのに…。

でも、少し時間が経って、あれはあえてそういう突然さ、性急さだったのかもしれないと思えてきた。ハヤオが実際そう思って作ったかは知らないけど、私なりの受け止め方として。

多分、家族っていうのにはある程度「形から入る」ことも必要なのだ。

結婚指輪を買う、婚姻届けを提出しにいく、「母さん」と呼んでみる――。
全部形上のものだ。(制度上の問題を除けば)婚姻届けを出さなくたって事実婚だって良いわけだし、母さんと呼んでも夏子さんと呼んでも、同じ人を指すのには変わらない。
でも、昨日まで恋人だった人を夫婦として扱うようになったり、叔母だった人を実の母と思えるようになったり、そういう今まで当たり前として築いてきた人間関係を再構築しなきゃいけないような、大きな人の心の変化をたった一瞬で起こすのは難しいけれど、それを形からなぞることで変化していく部分もあるんじゃないか。

だからこそ、「母さん」と呼んだのも、一つのけじめというか、ここからは切り替えて、家族としてやっていくぞ、という決意の表れだったんじゃないかと思う。

こういう話をするとどうしても同性婚とかの話について触れたくなってしまうが、本題からずれていくのでここでは控えます。不快な思いをする方がいたらすみません。形を伴わない結婚を下げているわけではないことだけは明記しておきます。全員の意志が尊重されることを願っています。

そしてその「形」には、家族となる相手のことを受け入れるというメッセージもある。受け入れるというのは、喧嘩しないだとか全部唯々諾々と従うだとかそういう話ではなくて、お互いの存在を認めて向き合うということだ。
そして私にとっての「家族」という存在は、根本の信頼を支えに、元の丸い形に戻ろうとする弾力を持ち合わせている共同体だ。はじめは形からでも、そのメッセージを送りあうことで、その弾性が生まれていくものなんじゃないか。
理想論だし綺麗事だけど、すべての家族が、相手のことを無条件で受け止める場所であってほしいと願う。

…途中で自分で現代文と書いてしまったときに自己暗示をかけてしまったのか、どんどん評論じみた文章になってしまった。こんなに「」を使ったのは初めてだ。
本当はあのつみきについてとか曲についてとか、もっと書きたいことがあった気がするけど、慣れない文体で疲れたので終わる。
別れはいつも唐突。さらば…。

追記

ヘッダー画像はこないだスロベニアで撮ったカモメらしき鳥。
友達が「これ君たちはどう生きるかの鳥に似てる!!!」と言ってたので見返してみたけど、私からするとカモメすぎる。似てるかな。似てるか…?君たちはどう思うか。

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