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片道17km、自転車こいで、 #文学フリマ へいった話

「文学フリマ」、というイベントがあることを最近まで知らなかった。

偶然、私のすきな文章を書く人が二人ほど、それについて言及していたので知ることとなった。

私は東京に住んで長いが、外出が面倒くさくて、イベントごとを見逃すことが多い。予定に入っているとか、人と約束しているならともかく、自分の趣味興味のためにイベントに行くことはほんとうに稀だ。なにしろ人混みが苦手だし、休みの日は穏やかに海の底の貝のようになって過ごしたいと思ってしまう。

それでも、私はこのイベントにどうしてもいかないといけないと思った。

そのために、自転車をこいだ。これは、それだけの日記、備忘録である。

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「文学フリマ」は、「その人が文学と思うもの」ならなんでも販売してよいという、まあ、いわゆる同人誌の即売会のようなイベントだ。会議テーブル半分にくぎったブースに、各々が「文学」と思うものを持ち寄って販売したり、交流を楽しんだりする。小説あり、詩があり、エッセイがあり、紀行文があり・・・まあ、ほんとうになんでもありだ。

お目当の作家さんがいたりしたら、そのかたの新刊を手にすることもできるし、広い会場をあるいて、好みの文章に出会うのもよい。そういう、「文学や文章を愛するものによる、文学や文章を愛する人のためのイベント」なのだ。

そういう事前情報はあったけれど、それ以外の情報はもたなかった。お気に入りの文章書きの人も、今回は出店していない。いわば、「何も知らん」という状態だ。私からすれば、「知らん人たちが、知らん人たち向けにイベントしとる」そういう感じだ。

でもなんだか、宝探しをしに行くようなワクワク感があった。

会場は大田区の「東京流通センター」、自宅のある杉並区からは片道17kmである。

地図をみたら、すぐ近くに「羽田空港」とある。23区の西側に住んでいるものとして、羽田空港は「遠いな〜」と感じるほどの距離だ。

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私は、人混みが苦手だ。電車が苦手だ。休日の雑踏が苦手だ。乗り換えなんて考えるとクラクラしてしまう。鉄道の地図を見たり、路線図を見たり、動画で鉄道関連のものを見たりするのは大好きなのに、出かけるとなると、とたんに苦しくなるのだ。

だから、電動自転車を持っている。会社にいくときとか、ちょっとした用事で都心へいくときなんかは、たいてい自転車でいくことにしている。杉並区、世田谷区、渋谷区、中野区、新宿区、目黒区、武蔵野市と、三鷹市ぐらいのエリアなら、ノータイムで自転車で行く。

自転車はよい。自転車に乗ると、心がウキウキする。風を感じて、ひたすらに無心に、自転車をこぐと、どんな疲れもふきとぶ。私は自転車が大好きだ。

羽田空港の近く、なんて遠距離を、電車を乗り継いで行ったら、きっと使えれ果てて「心のエネルギー」をぜんぶ使い果たしてしまうだろう。

だけど・・・自転車で行ったら平気かもしれない。

羽田空港ほどの距離まで自転車で行ったことがない。だけどきっと大丈夫なはず・・・。

わたしは自転車で、出かけることにした。

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都心を囲むようにぐるりと走っている、「環状七号線」をひたはしること一時間半、意外と迷うことも、疲れることもなく、会場のある街へたどり着いた。あっけなくて拍子抜けした。

大きな倉庫のような建物がたちならび、高速道路が入り乱れ、人が住んで憩う街というより、物流のかなめ、といった風情だった。自転車で来るような場所ではないのか、車でしか通れない道も多くて、少しだけ迷った。

巨大な飛行機が、ゆっくりと地上へ降りてくる。空の玄関、羽田空港なのだ、もはやここは。

羽田空港まで、こんなに近いのなら、今度から自転車で来てもいいかもね〜なんて思いながら、会場へ向かった。



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**文学フリマへ**

私は、「じめじめ湿ったところに一人でいるのが好きな、陰の者」である自負と矜持がある。陽があるから陰もある。「陰の者」であることは、恥ずかしいことじゃない。しかし、スポットをあびるのは、多くの場合、世界の陽の部分なのである。それは、「陰の者」にとっては、時々、息苦しく、まぶしい。

しかし、「文学フリマ」はすばらしき「陰の者」の世界であった。良い意味である。もちろん。

私たちは、静かな場所で、心のなかの聖域を愛する善良な市民だ。

なんというか、お客さんたちがなんとなく物静かである。その雰囲気がとてもよい。ああ、私、この場所すきだなぁ、と思った。

会場をうろうろと歩き回る。

気になった見本誌を読ませていただき、よいなと思ったものは覚えておいて、あとから購入させていただいた。

小説だけではなくて、マニアがマニア向けにマニアに書いているマニア本もいっぱいある。正直、面白い。面白すぎる。

なんというか、幸せってこういう感じだよなぁ、と思う。「そんなことやってなんになるの」とか、言われてしまったらしょうがない。だけど、自分の好きを貫いて形にして、本の形にして売るって、情熱がないとできない。たいてい、頭のなかで、思い浮かぶものの、実行しないことがほとんどなのだ。あの場所には、「実行した」人たちがあふれていた。

行動しなければ、需要も供給も発生しないような、小さな世界に自分の好きを打ち立てて、そっと存在している人たちを、私は心底羨ましいし、好きだと思った。

私はハンドメイドのプロの作家として、それで生きていたことがあるけど、その最初のきっかけは「デザインフェスタ」というイベントに遊びに行ったことだった。好きをつらぬき、世間の需要があるかないか、の場所に、それを突き通す、自由があった。「売れること」が至上主義である「マーケット」というろ過装置を通さない、生身の人間のバカバカしさとか、無駄さとか、そんなものがあふれていた。そういう余剰といってもいいものを生み出すのが、人間の素晴らしさだと思った。

私も、「余剰」をうみだして、自分を貫こうと思っていたんだった。

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港湾地域は空が広く、無機質な街に空のグラデーションが映えていた。

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エネルギーをたっぷりといただき(本も色々と買った)、楽しく帰路についた。


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杉並区はゆるやかな武蔵野台地のうえにあるので、港湾地域からはずっとゆるやかな上り坂であり、帰りはなかなか疲れてしまった。

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たぶん、私、いつか、出店側で、あの机の向こうで本を販売したいと思っている。たぶん、私、「誰が読むかわからないけど、自分が読みたいもの」を書いてみたい。書きたい。

36歳になってから、心のすみっこに静かな憂鬱があった。いよいよ「中年」というゾーンに入り、若い人とは違うけれど、夢もない、目的もなく子供もいない、幸せだけど、どうやって中年を生きて、年を取っていけばいいかわからない。そんな漠然とした不安があったのだ。ただ、日々を過ごすだけで、老人になっていく気がした。

それも悪くない、と思ったけれど、そんな隅っこに生きる日々を、どうせなら、小さな本を出しながら、生きていきたい。需要はしらん。ないかもしれない。

たぶん、今後も壮大なことはしない人生だろう。貝みたいにひとめを避けて、夫を看取ってから孤独に死んでいくと思う。それはそれでいいんだけど、小さな本をだすことを目標にしたら、毎日に小さなあかりが灯るような気がした。

というわけで、とにかくこの気持ちを文章に残しておこうと思った。

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