数学の指摘を陰湿だと思うのはやめよう


ときどき、数学の誤りを指摘することを「陰湿だ」と発言する人がいるので、ここで私の考えをまとめておきたいと思う。

数学の指摘には、マトモな場合と、陰湿な場合の2種類あると思う。

私が考える「マトモな場合」とは以下のことである。

  1. 具体的な誤りの指摘

  2. そこから演繹される発信者への意見

つまり、指摘に具体性を伴った上で、コンテンツの発信者の信憑性を評価するのはマトモな意見論評だと考えてる。

例えば、有名な教育系ユーチューバー Y が居たとしよう。この Y さんは非常に有名で、物理や数学の教育に貢献している人物だとする。

この Y さんのことを批判する匿名の人物 B が現れたとする。

  1.  「Yの動画の〇〇分の板書は変である」

  2. 「Yのチャンネルの動画は、数学的な厳密性が欠如している」

このとき B さんの言うことは陰湿で、揚げ足を取っているように見えるかも知れない。2 の発言を先に見るとなおさら陰湿に見える。

しかし、学問的に誠実なのは、誤りを指摘して多くの人に正しい理解を促すことだと、私は思う。

少なくとも数学に関しては、客観的に正しいか正しくないか判定ができる場合が多い。しかし、その判定には、ある程度の数学的成熟度が必要な場合があり、B さんの意見は、専門性の高さのため、多くの人に理解されない可能性がある。

B さんの数学的成熟度が高かった場合、2の発言のように思うのも不思議ではない。

このようにして、コンテンツの内容を指摘し、そこから発信者について意見を述べる、真っ当な場合に関して言えば、何ら陰湿ではないということを、このnoteの読者には分かってもらいたい。


ただし、誤植や言葉遣いなどは、比較的些細なことであり(それによってコンテンツ全体の評価が左右する場合を除いて)細かく指摘するのは陰湿だと私は思う。ただ、誤植は誤植なので、コンテンツの発信者側に責任があることは間違いない。

誤植でないものを誤植と言い張ったり、解釈が分かれるものを指摘するのは、陰湿な指摘だと思う。数学の記号の好みや、教育的な文脈では、誤りかどうかは解釈によって異なる場合がある。

例えば、”かけ算の順序問題”は、数学的に言えば「順番を気にするのは間違い」であるが、教育的な文脈では評価が異なるであろう。

また、フォントが読みづらい、レイアウトが気に入らないなどの意見は個人差があるので、どうしても言いたい場合を除いては、あまり好ましくない指摘だと思う。

また、陰湿な指摘のなかでも最も悪質なのが、人格攻撃になってしまっている場合である。

例えば、学歴や外見を揶揄したりする場合である。

このような、陰湿な指摘と、マトモな指摘は混同されがちではあるものの、発言内容をよく読めば区別はつくであろう。

以上で、数学の指摘に関する私の基準を述べた。

私も数学のコンテンツを細々と投稿しており、間違いの指摘を受けることがある。

私のところに届いた指摘は真っ当な指摘ばかりであり、とても感謝している。未熟な私のコンテンツを閲覧して、公開の場で指摘してくれる方々には、頭が下がるばかりである。

正直、私の事を褒めてくれる人よりも、専門的な立場から指摘してくれる人を大事にしたいと考えている。





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