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目をそらしたが故の誤算

入院していた父の容体が急変した、と病院から電話があった。朝の4時頃だったと思う。電話口でそう伝える看護師さんの向こうがザワついているのを感じた。すぐに弟たちに連絡したがつながらない。母も出ない。私は一人車に乗り、病院に向かった。

すごく広い真っ白な部屋の真ん中で、父は一人、数人の医者に囲まれて横たわっていた。私が到着したのを目の端に捉えた医師が心臓マッサージを始めた。するとベッドサイドモニタが少し動く。マッサージをやめると直線が伸びていく。マッサージをするとまた動く、やめるとまた伸びる。 つまり、医師たちは私に、もうこのマッサージをやめていいかどうかを確認したいのだった。

どう答えたか覚えていないが、私は急に気持ちが悪くなって、トイレで吐きました。人間は受け入れられない出来事があると、こんな風に体が反応するんだと感心しました。私は父がいなくなるなんて、その時まで全く考えていなかったのです。確かに、ICUに入った時、若いお医者さんは言いました。
  「いつどうなるか分からない状態です。だからナースセンターの横の
このICUにいます」
それでも私は、そのお医者さんが言わんとしていることが分かりませんでした。驚くかもしれませんが、家族全員、そして80歳の父本人も、その意味を理解していませんでした。
  「毎日行かないと機嫌が悪くなるけど、私も忙しいのよね~。今来たのにもう帰るのかっ!って怒るけど、行っても面白くないし。。」と、母は愚痴を言っていたくらいです。だから平日は母と私が、週末は弟たちが交代で病院に顔を出すようにしていました。これまでも大きな手術をしてきたし、そのたびに回復して元気になっていたので、その時も当然大丈夫だと思っていたのです。

病院に運ばれたのは、私が臨月でたまたま実家にいたときでした。朝起きると、父はいつものように定位置で新聞を広げていました。でも、読んではいませんでした。今思えば、具合が悪かったから新聞など読める状況じゃなかったのに、平静を装って、普段通り身なりをきちんと整え、背筋を伸ばして新聞を広げていました。すごく震えていました。夜勤の母に電話をして、救急車を呼ぼうとなりましたが、サイレンを鳴らした救急車が来たら、近所に迷惑がかかるから嫌だと父が合意しません。それでも様子が尋常ではないので、私が表通りに出て案内するので、そこからはサイレンを消して家の前に停めてほしいと、119番に電話をしました。

父が救急車で運ばれ、母は午後になって病院に来ました。スポーツジムに通うのが日課の母は、その日も楽しみにしていたレッスンがありました。父に付き添ってるから、ジムに行ってきてもいいよと言ったのは私です。母はその後も、ジムには毎日必ず行きました。父も母も、もしかしたら今回はどうかなるのかも、と、どこかで感じていたのかもしれません。だから無意識に、その不安を覆い隠すように、通常通り暮らしていたのかもしれません。      
  
  
  「そんなこと考えるなんて縁起が悪い」
  「言霊ってあるのよ、そんなこと言うもんじゃない」
    

「老い」という言葉にはマイナスなイメージが伴います。
敬老の日の催しへの招待状を、父は自分とは無関係とばかりに完全に無視していました。母は「おばあちゃん」と言われるのが嫌で、ママのママだから「ママママ」と呼んで、と今でも孫たちに言っています。「若い」と言われると喜びます。以前と同じであろうと日々努力することで、若さを保っていることは認めます。両親ともに、実年齢よりはるかに若く見えました。
でも、人間はいつか必ずしぬのだから、そこから目を背けてはいけないと私は強く思います。父はそこを避け、目を伏せて通ってきたので、後処理が大変でした。知らないことがたくさん出てきて混乱しました。

父は、母と結婚する前に、別の人と結婚していて、娘が二人いました。
私も弟も、そのことは全く知らず、父が亡くなって初めて知りました。
私は子どもの頃からお姉ちゃんがいたらいいなと思っていたので、その話を母から聞いたとき、尊敬し、大好きだった父が私に繋げてくれた縁なのかもしれないと思って、嬉しかったのを覚えています。父も母も自分たちの人生の仕舞い方を全く考えておらず、例えば実家の名義は父一人になったままでした。家を残った母の名義に変更しようとすれば、その娘さんたちにも相続の権利が発生するので、二人の承諾が必要です。そこで、その二人を探す作業を、私にやらせて欲しいと母に言いました。母は承諾しました。

戸籍を辿っていくと、彼女たちの生い立ちが少し垣間見えました。インターネットもある程度の情報をくれました。彼女たちそれぞれの現住所がわかった時点で、母に途中経過として報告すると、
  「どうもありがとう。忙しいのに申し訳なかったね。でも貴方に頼むべき事じゃなかった。この後は司法書士の人にお願いしてあるから」
と、私を突然切りました。父が私に繋いでくれた最後の縁を、母が独断で、勝手に断ち切ってしまうことに怒りを覚えました。

自分一人が悲しいみたいな顔をして、ことあるごとにいつまでもメソメソ泣く母に、私はいらいらしていました。私だって父親を亡くして悲しい、そうやって泣きたいけれど、母がそうやって泣けば、私は泣けないじゃないか!小さい頃からの不満も一緒にぶわーっと湧き上がって来て抑えきれず、
 「どうしていつも私を理解しようとしてくれないの」
 「なんで私の気持ちを尊重してくれないの」
私は初めて、大声で母を怒鳴りつけてしまいました。

階下にいた弟たちが驚いて、二階に上がってきました。そして言いました。  
 「お姉ちゃんは何がしたいの、彼女たちと友達にでもなりたいの!?」

私は実際、想像していました。
父が亡くなったことを報告する手紙を、彼女たちに丁寧に書く。
家の名義変更のこともあり、一度お会いすることはできますか、と言う。
彼女たちそれぞれの家のそばのファミリーレストランで会う。
血のつながったお姉ちゃんたちと、私は向き合って座る。
そして・・・・・・。

 
 「友達になんてなれるはずがない」
・・・・・・そう。
弟の言う通り。
今よく考えてみれば、そうかもしれません。
彼女たちからすれば、お父さんは取られたわけで、必ずしもその後幸せだったとは言い切れないように戸籍から見受けられました。

母にはその後、その件については一切訊いていません。
私も彼女たちのことは忘れました。
母からは、その後裁判になって、最近終わったと報告がありました。
父の生きざまは、たくさんの人に影響を与えた、誇れるものでした。
でも、死にざまは最低でした。
死にざまが最低なのは最悪です。
人はしぬ。必ず老いる。
もしもの備えは、縁起の悪いことを呼び込むものでは決してありません。
私は自分の老いを受け入れ、立派な死にざまを目指し、死を直視して生きていきたいと思います。





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