「あたま」で理解する事と「全身」で理解する事の根本的違い

理解とはあくまでも「あたま」でわかった事だけど
全身では分かってはいない

全身でわかった事を「東洋的倫理」と
呼ぶことにしよう

東洋的な倫理は
「そうせねばならない」ではなく
「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」という形を取る

逆に言えば「そうできない」なら
「まだわかっていない」ということである

何かがわかるとは
その何かに見合うように
自分が変わるということだ

あなたが何かをわかろうとして
自分の変化を受け入れるとき
その何かもあなたに向けて
その「魂」を開くことだろう

わかってない人はまず
何かをわかろうと頑張るのだけれど
自分を受けて入れてはいない

なのであたまではわかっているんだけど。
から進まないのだ

もし事物が
その「魂」を開かないのであれば
あなたはまだそれを
「わかる」準備が整ってはいないのだろう

「わからないこと」は
いつもよそよそしい外観をしている
(ソワソワ、イライラ、モヤモヤ)
脳も身体もわからないということは
不可がかかるがそれを楽しめるかどうかでもある

しばらくは距離をとって
眺めているしかない

それが「分をわきまえる」ということである

わからないものを
無理にわかろうとしてはならない

評価しようとしてはならない

ましてや裁こうとしてはならない

【それはあなた自身を変化から疎外する態度だ】

事物(じぶつ)は
ただの死んだ事物になり
あなたにその「魂」を開くことはなくなるだろう
あなた自身も永遠に「ただの自分」のままだ

受け入れない、拒絶に走る
つまりはそのままで居ると決める行為なのだ

アニミズムとは
凡ゆる事物が「魂」をもつという世界観だ

何かが「わかる」ということは
自分が変化することで
事物に開かれることだった

つまりアニミズムとは
自分と事物が交叉する時空のリアリティを実感するという態度なのである

それは迷妄ではなく
むしろ明澄さの証である

西洋・近代における
何かが「わかる」とは
その対象を見るための適切は視点を
獲得することを指す

だが東洋・非近代において
何かが「わかる」とは
その対象と交わるための
「魂」を獲得するということを云うのである

視点には盲点があるが魂には死角はない
魂とはモナドである

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