大切なものは、目に見せたい
星の王子様が言う
「大切なものは目には見えないんだよ」なんて
甘ちょろすぎると常々思ってた。
前回の記事「愛を知らないこども、無償の愛を知る」
を書いてて(ど要約:仕事初めて以外に世の中無償の愛に溢れているのを知る。でも無償過ぎて気づかれない。けど愛がない世の中っていうより、あるのはいいね。)
最後読み直してて、感想でこう思った。
世の中に愛はあっても、無償の愛自体が転がってても気づかれないなら意味ないよなと…なんか物悲しい虚無を感じた。えーっと、なあ。
んで、その虚しさへの答えが、自分の中にもともとあるなって思った。
冒頭で書いた星の王子様に関する感想がそれ。ずっと思ってたこと。
「大切なものは目には見えないんだよ」なんて言ってる暇があるなら、大切なものぐらいちゃんと見据えて、そんな風にたそがれてないで、ちゃんと大切にしようとしようよ。ちゃんと大切なものを見ようよって思う。(私の日記より抜粋)
「大切なものは見えないんだよ」、そういうスタンスで過ごす人はそれなりにいる。
例えば、
・いつか見えるそれまで待つの、そう言って、何かを許す人がいる。あの人は本当は優しい人だからっていう人。
・俺、この言葉好きなんだって言って「大切なものはいつも後から気づくんだよな…」って、黄昏る人だけの人。そして同じ失敗を繰り返す。
大切なものは目に見えない。素敵な言葉で真理でもある。
でも、思ってしまう。
ハイハイ、そこで終わらない。
そうなら、自分から(自分なりの大切さを)見せにいく!
もしくはちゃんと目を見開いて(相手がどう自分を大切にしているかを)見に行く!
って。
その気概を持たないとどうにもなんないでしょう、って言いたくなる。
(この件に対しては、この言葉に対しては、いつもなんかノリが高くなって言いたくなる。いやいや違うでしょ、あんたこっからでしょって。 書いてても文体が落ち着かない。)
大切なものが見えないならどうするか。
それを考えるのが、大切なんじゃないの、そこのとこ、どうなのって思う。
大切なものは見えないなら、見せようよ。
口も何も私たちにはある。大切さを伝える手段ならたくさんあるやん。
って。
大切さは「見えないけど、きっとある」、だから大丈夫だという安心は、「見えないからきっとない」と同居している。
シュレディンガーの猫と一緒で。
箱の中だから、どっちかはわからない。
見えないものを信じていくのは、ステキだとも思う。
けど、きっと浮かんでるその不安を、かぶりを振って見ないフリすることにそういう不安定さに心使ってやっていくの?って思う。疲れるよって。
ならば、見にいけばいい。見せればいい。
怖かったとしても。
そういう手段があるのに、大切さを見せないってなんなん。
そして自分の大切さを見せようとしないってなんなん。
そんなめんどくさいのか、大切にするって。
そんなに気づけないのか大切さって。
そんな風になんだか憤ったりする。
…
と書いていてまあ。そうなんだとは思うけど。
大切にするのはめんどくさいんだ。
きれいで甘くてキラキラしたものじゃないんだ。
でも、大切なものに気づき、失ってからもんどり打つ。
あれはたまらない。
見ないふりしてて、やっぱりなかったんだ…っていう虚無感もたまらない。
少なくとも、この星の王子様名言に心動く・理由がわかるようになった時って、きっと過去に大切にできなかったものが、具体的に浮かぶものでないかと思っている。
星の王子様、個人的には何も知らなかった子供の頃は、雰囲気は好きでもなんかよくわかんないお話だった。象を飲んだ蛇だけが楽しかった。
だから
「大切なものは目に見えないんだよ」
それがわかる私たちは、
次こそはという気持ちで先につなげるのだ。
そして次は、今から先である。
大切なことを見ることを、見せることをしていく。
多分そういうのが、無償の愛も虚しく終わらさない部分でもあると思う。
愛を感じて、愛を見せる。
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。
という勢いで、了
(フェスで一度見ましたが、「世界はそれを」と彼らが言った後のライブの一体感はほんとぱないよね。「「「愛と呼ぶんだぜーっ!!!!!」」」)
果ノ子
一応前回記事
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