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ヒビ割れグラス

「子供なんて産まなきゃよかった」

そう母から言われたことがある。もう10数年以上前のことであるが、そのときのことは濃厚に覚えている。
あれは、雷に打たれたというか、強烈なビンタを食らったみたいな。そういう体験だった。

何か悪い事をした時に相手からビンタされる。
ということが、まあビンタされる時の普通だと思う。
ただ漫画やドラマの世界では、落し物を渡すために声をかけたら、とか。その人のために選んだ誕生日プレゼントを渡す時に、とか。予想だにせず不条理にもらう、そういうビンタもある。

私が母に「子供なんて産まなきゃよかった」という、ある種の強烈なビンタをもらったのは、後者に当てはまるのだろう。あの日、私は何かそのビンタをもらわないといけないような悪いことをしたわけではなかった。

ただ予想だにしないビンタの方が、ガードをしていない分、そのダメージは大きい。


当時の私は17歳の高校生だった。私の家族は当時言葉が聞かれるようになった仮面家族にあたる家族だったと思う。
家庭内の不和・不協和音が何年も続く中、両親に対して「離婚すればいいのに、やりなおしてもいいのに」という思いを中学生の頃には持っていた。
離婚して家族が仕切り直せば、そうすれば母は楽になるのではないか、私も楽になるのではないか。新しい生活を始めれば、もう少し生活の息苦しさが変わるものがあるのではないかと考えていた。
それでもいいな、そうなったら私はどっちについて行くのかなと時折、空想する。ただそうは思っても、私自身には経済力もない。本当に離婚になって親に捨てられるとしたら、それはこわい。選ぶのも、選ばれないのも怖い。

そういう思いで、子供の私は、「離婚して自由になっていいんだよ」と親に言いたくて、でも言えなかった。


そのビンタを食らった日は、
いつものように母から、父の愚痴や兄のことを聞いていた。
子供の時に比べれば大きくなった高校生の私。
部屋に来て話す疲れた母に、そんなにつらいならといつも思うことが浮かび、今なら言えるかもしれないと思って言った。

「お母さんが望むなら、離婚して自由になってもいいんだよ」と。

長年言いたいような言いたくないように思っていたことを、振り絞って伝えた。

その時に母がどんな返答をするか、とても怖かったから、当時の母の表情はいまだに覚えている。一度止まった後、目をそらしてため息をついて、ひどく悲しそうに言われた。その返答が、そのビンタだった。



正直、その言葉にとても驚いた。

「お母さんが望むなら、離婚して自由になってもいいんだよ」が、
「子供なんて産まなきゃよかった」に、そう繋がるなんて、そんな風に全く思っていなかったのだ。

当時の私は、その言葉を発することで、閉じてしまった母の未来を自由に明るいものにできるのではないか、そういう希望を抱いていた。
言えてなかった本音を伝えることで、何か通じ合えるかも、そう思ってた。
活路を見出して、世界が開くのではないかと思っていた。離婚をして家族がバラバラになるということは、わかりやすく私の子供時代は終わるし、生活が厳しくなるだろう、学校にも行けなくなるかも。でもそれでも、「お母さんに自由に生きてほしい」ということは、私にとっての願いだった。

けれど私の言葉は、母に深い悲しみを与えて、そうして私を傷つける一言を母の口から発させた。



今はもう大人になってわかる。

母は苦労をして働いて家事をして、生活を必死に過ごしていた。家族を成り立たせていた。母自身の感情を端において。
その私が発した言葉は、それまで頑張ってきた「母親らしく」あろうとした母自身、その否定に取られたのだろうということを。
辛いと思いながらも一生懸命こなした役割を、しなくていいと言われたら、それはどんなに辛いことか、そのことを今の私はもうわかっている。

私は悪手を打ったのだ。残酷なことを言った。私は母を傷つけた。

けれど、


それでも「子供なんて産まなきゃよかった」と言われたことの傷は、十数年経っても、私の中に残っている。

生傷というとなんだか違う。大怪我ともまた違う。
自分が樹なら、その日裂けた大木の幹をそのままにして生きている、グラスならヒビ割れ。もうもどらない。そういう感じが近い。
そういうまま生きている。



「子供なんて産まなきゃよかった」

母に言い返されたその瞬間、胸がギュッと締まる思いをしながら、当時の私はものすごい速さで考えた。予想だにしなかったビンタに崩れず形勢を立て直そうとした。
私は今、この辛い日々の中での母の重荷が少しでも減るように、さっきの言葉を言ったのだよな?そう思って。

だったら、私が今母が言った言葉に、私が一番言えたらいい言葉はなんだろう…きっとそれは「私は生まれてきてよかったと思ってるよ」だ。

それを言わないと、言わなくちゃ。

そんな風に、考えた。

この心底悲しそうにしている母に、子供の私が言えたら一番いいのは、きっとその言葉。それが最適解。
そう、悲しそうにする母の顔を見ながら思った。

だけど当時の私は、まだ生まれてきてよかったか、よくわかってなかった。

そういうべきだと思いながら、生まれてきてよかったと思えていない私は、喉が詰まって、それを口には出せなかった。
かわりに「なんでそんなこと言うかな…」と絞った声で、なんとかいうだけだった。


その後。頭もジンジンして胸もギュッとしたまま母との会話を終わらして。
母がドアを開けて出て行った後、部屋のぬいぐるみに倒れこんだ自分を覚えている。
その当時、読んだ漫画版ナウシカの漫画に出てきて最近知った単語を浮かべながら(なるほど、これが人の『虚無』という感覚なのかもしれない)そう思った。
静かに泣いた。怒りは湧いてこなかった。

そうして「あなたなんて産まなければよかった」ではなく「子供なんて」でまだよかったのかもしれない、とか考えたりした。

母の主語は「私」という存在を産んだことではなくて、子供を産むという行為そのものに対しての否定である、というところはまだ救いだなとか、冷静に思ったりした。

そうして考え続けた。

「子供なんて産まなければよかった」私がそんな言葉を引っ張り出してしまったけれど、私が母に伝えたいのは「母に自由に幸せになってほしい」という思いだった。

私があの会話の中でしたい本懐はそれだった。

だから、そう子供に言うほどの悲しみを持った母に、その思いをどう伝えられるだろうというところに、気持ちを絞った。
そうして、その絞った結果として「私は生まれてきてよかったよ」と、そう思える私になって、いつかお母さんにそれを伝えられる人間になろうと思った。そうなれたらいいな、とおもった。
その日はそれだけ考えて眠った。それだけを思った。

だから次の日、確か母に昨日のことを何か言われた気がするけど、別に的な態度で返したと思う。そこはもう覚えていない。


そうなのだ、私は良い子だった。そうして臆病だった。
その健気な良い子っぷりで。そう思うことで。
私は「産まなきゃよかった」と言われたことを一旦箱にしまったのだと思う。
その言葉を受けてぐわっと溢れ出す感情の辛さを、しまって見えなくしてしまいたかった。必死に思考することで、感情にロックをかけた。


私の母は人の悪口をまっったく言わない人だった。
バカという単語ですら、母の口から発したところを聞いたことがない。小学生の頃、一度いじわるする男子にイライラしてどうしようもなかった時に〇〇死ねと殴り書きをして、そのメモが見つかったら家から締め出されたのを覚えているぐらいだ。
そういう人が言ったその言葉は、本心だ、そう思った。心の底から思ったのだ、と思った。
切れて口が悪い人がつく悪態とは違う。それはひどく怖かった。

でも、私がいつか「それでも私は生まれてよかった」と母に返せる日が来たら、母もきっとあんな悲しい顔をせずに笑ってくれる。


そうしたら産まなきゃよかったと言われた私は、その時にきっとなかったことにできる。そこまでたどり着けば私はこの感情を見ることをしないまま、四散させてなかったことにできる。


「辛いこともあったけど、私は元気です」そこまでいけたら、私は辛さを思い出にできるだろう。
私はそういうハッピーエンドを目指すことで、私は母から「産まなきゃよかった」と言われた私であることを見ないふりをした。


そうして私は、生まれてよかったと言える私を目指して生きてきた。

「産まなきゃよかったと言われる私」に
「産んでもらってよかったと言える私」を足して。
漫画であるようなそういう良いシーンに持っていければ、全て帳消し、みたいな。 テトリスとかぷよぷよ見たく、パッと悲しみが消える。そうなるように。


その思考は、私を悲しみに浸らせず、私を生かしてくれた、とも思う。

幸せに思えることに手を伸ばす力にもなった。学校で好きなことを学び、好きなように生き、人と出会う中で、「なるほどこれが幸せか」そういうグラスの縁が満たされるような感覚を知り。そうして私は生まれてきてよかったと心から思える人間になれた。

私は、私は生まれてきてよかったと、そう普通に思えていて、それを言葉にできるぐらいに、それを伝えられるぐらいの実感を得ることができたと思う。親にそう言ってもいいぐらいには私は幸せを感じてこれた。
あとは私が母に伝えられたら、そうしてもし笑いあえたら、「子供なんて産まなきゃよかった」と言われた、私はなかったことにできる。


そういう段階まで来て。

わかってしまった。


その言葉の後の様々な家族のやりとりを経て、私は当時の私の本懐だった「母をしあわせにする」をしてあげられないこと、私にはその力がないことが、やっとわかった。
お母さんにとって「自由になること」それが私みたいには幸せにつながることでもないと知った。

そして、その当時のまっすぐに母を幸せにしたかった気持ちが、もはやないことがわかった。
そうして、母が私のかなしみに気づいてくれるわけでもないのだと、ちゃんと分かってしまった。

母が気づけるように、母に「生まれてきてよかったよ」そう言って。
母に通じる言葉で、愛情を伝えること。
伝え続けようとすること。それに疲れてしまった。


私にとって私は生まれてきてよかったけれど、
母にとって私を産まれてきてよかったかは、まったくの別のことなのだ。
それは母の人生の話なのだ。

といってもきっと、母に「私を産んでよかったと思ってる?」と聞けば、YESと言うだろう。けれど。

母に通じる言葉をきちんと選ぶこと。聞かなければわからないもの、伝わってこないもの。そういうことの多さに、私は疲れた。阿吽の呼吸が合わずずれる日々に疲れてしまった。


そうやってヒビが入ったあの日から十数年。

母をしあわせにする私を、私は諦めた。

私は母の理解者になれないことがやっと身にしみて、私は今、母と交流しないことを決めている。理解者にはならない。私はあの人をしあわせにしない。

それは納得した。


けれど、人生は難しいなーって思うのは。


”母にいつか産んでよかったと思ってもらえる私”

これを放棄したら、これまでは箱にしまって置いておいた、そのハッピーエンドまで行けば消せるはずだった、パズルのピースが消えずに表に出てきてしまった。

私は母親に産まなければよかったと思われる娘である。見ないふりをしてきたそれを見ないふりできなくなった。
なかったことにしたい、なかったことにできるはずと思っていた、所詮「産まなきゃよかった」と言われるぐらいの自分であることの痛みが、ズバババンと表に出てきて。

17歳のそういう言葉を浴びた時からずっと、そのテトリスだが、ぷよぷよだかのピースを消すことを理由の一つに生きていた。

そのことを諦めて、この一生消えないパズルのピースが残ったまま生きていくとなった時に、このピースを抱えたままどう生きていくか、正直わからなくなった。

私は、大好きだった母親から「子供なんて産まなきゃよかった」と言われるぐらいの存在だという自暴自棄さがある。それはいつもあった。自身の価値の実感の無さ。自分の負債の部分は認識していた、だからできる限り良い子でいた、でも意味がなかったと実感した日々。
それに、それを言われたのが、私なりに母親を一番しあわせにできると当時思った言葉を伝えたタイミングだったのもあって「自分が全力で何かをしたところでそれが大切な人を傷つけるリスクがある」と言うことと「人はその人がベストだと思う方法をした時に他者を救えるものでもない」これをまざまざと学んだ。

でも、それらは全部、「私がまだ途中だから」と見ないでこれた。
これからどうにかできるように頑張ろうと思えた。今は一生懸命やるしかないのだと言い聞かせた。

そうやってやってきたのに。


そうして、その「できる私」になる、を放棄した今。
レベルをいくらあげても救えるものでもない、と諦めたら。


ただそう決めたら、なんというかほんと、
私なんていいかな、って気分になってしまった。


私は私にとって生まれてきてよかった存在だと思えるし、
要所要所ではきっと私がいてくれてよかったと思ってくれている人がいるのを知っている。

けど、いつもどこかで「私でなければもっとうまくいっただろう」という思いが消せなかった。私なんかでいいのかな?と思ってきた。
なんだか、褒められることがあっても、嬉しくても、照れても、それよりもどこか困ってしまう。



私のグラスの底にはヒビがあって、そのヒビはきっといつまでも 溜まらないようにできている。

このヒビ割れたグラスのまま、私はどう生きようか、と。

まだかんがえている。



果ノ子


6、7月に書いていた文章のお焚き上げ。
なんどか読み直してるんですが、言われた当時の私、その場で言われたことによって感じた不快感とか感情は普通に遮断してて、すごいなーーーと。ほんと思考に集中してたんですよね、当時。
今もその感じ得意ではあるんですが、「ぶっちゃけていいですか」と言葉の前につけると感情を言える、ということを覚えてからはだいぶ変わった気がします。
ただ考えてみれば両親に対して「ぶっちゃけていいですか」を使ったことがなかったなと。使えたら違うこともあったのかもしれませんが、それをするにはお互い手札が鋭すぎたんだろうな、と。
たぶん言われた次の日の朝には、この件について母からは謝られていると思うんですが、そんなに記憶ないんですよね。完璧に前日ので気持ちを閉じていて、今更何を言うんだろうとすごい冷めていて。
せっかく私は蓋を閉めたのに開けてくるな、っていう感じだった気がします。もう方針は決まっていて、謝られようがどうでもよかった。そんな感じでした。

後半のどちゃーっと開いた部分はまだ整理できてないけれど。
今日読んでて感じたのは「産まなければよかったと言われたことをちゃんとなかったことにするため」に、私はずっと母を「最愛の悲しげな母」と思い続けていた面は否めないと思ったり。
愛してもいない人に言われるのと、愛している人に言われるのでは言葉の受け取り方って変わるけど、17歳の子供の当時の方法のまま自分を守るためには、その後の私はたぶん彼女を嫌いになれなかったんですよね。嫌いになったらこの言葉についてまた新しいロジックを組まなきゃ行けなくて、それはすごく大変できっと避けていたなって思います。あとは嫌いになっちゃうとご飯食べたり生活を支援してもらっているの嫌になっちゃうし、生きていくの嫌になっちゃうし。たぶんそういう生存戦略の面もあったんですよね、きっと。

だからこそ、いまさらな仕事をして生活を自分で成り立たせた年になってからいろいろ出てきてしまったわけですが。
その点では単純に「私はこの母親が嫌いだった」にできてしまえば、嫌いな奴に言われたことなんて気にすることないと思えるかなーと思ったりもしますが、なかなか単純にそれでいいのかな?と考えています。愛していたけど、過去の人だ、に収める感じな気がしています。

ただ「自分が全力で何かをしたところでそれが大切な人を傷つけるリスクがある」「人はその人がベストだと思う方法をした時に他者を救えるものでもない」については、ヒビを見ないでいた頃の、いつかヒビをなかったことにできると信じられていた頃の、
「だからこそ私たちは」と思えるように戻りたいところがあります。


ヒビ割れグラスとしてどう生きるかは緩くやっていきたいところ。

ヒビにアイデンティティ感じなくて忘れてもいいんですけどね、それも含めて。


あ、まあそろそろ、これを出してもいいかーと思えるほどには元気です。


*前回まで書いてた野の医者は笑わないの感想文シリーズは、書きたい部分がなんか、人間の文化とか排他とか集団性とかに言及し始めて、いやこういう分野の文献とか読んだことあるわけでもないし、理論的に書こうとしているのに想像で書いてる部分と知識不足を感じて文章の大枠だけ書いて止まりました。のでまずは出しちゃえ的なこれから。



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