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生まれて産まれてない弟と、お姉ちゃんのわたし


20数年前。弟の誕生とそしてお別れがあった。

私が、小学2年生の時。死産だった。幼かった私は弟と対面することはなかった。生まれて死んだこと。そこにいたことを、周りに公にされることもなく、ひっそりとあったそういう命。
いたのかもわからないような、そういう弟。

それでも私はずっと思っている。私はお姉ちゃんだ、と。

私は彼の姿を見たことはない。そして彼の存在は周りに認識されていない。なのにこの感覚を持っていることは、なんだがどうなのだろうと思うこともあったのだけど。

でも私は彼がいたことを知っていて、考えてきて20年以上。
これはもう胸を張って、私はうん、お姉ちゃんだったのだ、と思うようになってきた。わたしは3人きょうだいだった。

以前何回かに分けてnoteに書いた弟と私の話。久しぶりに読み返していて、せっかくなので記事を一つにまとめ直してみることにする。(15000字ぐらい。最後に支援情報とか少し)

前置き

まず初めに書いておくと、私の家族はその弟の死の悲しみをうまく対処できなかった家族である。もしかしたら両親はそうは感じてないかもしれないけれど。少なくても、こどもの私はそう感じていた。

その家族の中で、当時は『弟の死』というものをわかっていなかった子供の私が、そのできごとをどんな風に見ていたか、大きくなるにつれて「死」をどんな風に理解したか、そういう記憶についての文章である。

なるほど、こういう風に死産について捉え、さして命について考える、子供・きょうだいもいるのだ、という程で読んでもらうといいのかなと思う。


小学2年生だったわたし、弟ができる。

弟がお腹の中にある命として生きていたのは、私が小学2年生、7歳の頃だ。
ある日学校から家に帰ると、母と、母と仲が良いおばちゃんがいた。いつもと違う様子だけれど、おばちゃんが遊びにきていることに喜んだのを覚えている。しばらくして、お母さんのお腹に赤ちゃんがいること、そして入院が必要だと言うことを母が説明してくれた。それはプールが始まる前の初夏のことだった。

7才の私は、赤ちゃん!と単純に喜んだ気がする。

明日からのお母さんの入院に備えての話をいくつか聞いた。生活のこと。
お話の後に、自分で結うのはまだ難しかった長い髪型を、その日のうちに母に髪を切ってもらったのを覚えている。初めてのショートカット。

私は、赤ちゃんはいつ産まれるの?と聞いて、母は、赤ちゃんが産まれるのは11月の予定よ、と答えた。

今はまだ、初夏。
大人になった今なら、そんなに早い入院は、何かあったのかと疑問に思う。

けれど、赤ちゃんを産むためにお母さんの体調を見るために入院が必要と説明を受け、私はその時期の入院が変だなんて思うこともなく、お姉さんになるなら頑張ると、ワクワクしていた。

また赤ちゃんのことはみんなには内緒にしてね、と言われ、それを私は了承した。秘密は守るものだ。
私は言いつけ通り、母が入院したことすら、友達に話していなかったし、遊んでる時におばちゃんは?といわれたら買い物かな?とごまかしたと思う。

言われたことを守ること、それを赤ちゃんが産まれるまでのミッションのように感じていた。早く友達に話したいなぁと思いながら、良い子に律儀にそれを守っていた。

母が入院して、家事は父がする。

朝、兄といっしょに布団を押入れにしまう。日によってはわたしがひとりで夕飯で食べるお惣菜を買いに行った。
週に1回か2回、バスでおばちゃんと兄とお見舞いに行った。休日は父と一緒に。
母に会うことも、それまでの期間にあったことを話すのが楽しく大きく不安もなく毎日を過ごしていた。

そんな日々を過ごして、どれくらい経ったのか。ある日の朝、夏休み前。
学校に行く朝に、父から、朝に赤ちゃんが産まれたけど、ダメだった連絡があったことを伝えられた。

赤ちゃんは男の子だったの女の子だったの?と聞いて、父が男の子だったと言った。小学2年生の私は、(そうかぁ)と残念に思った。
そして、その次の日か、その次の日の次の日か。
おばちゃんと兄と、母のところにお見舞いに行った。

大部屋にいる母のベッドに行き、母に兄と一緒に手紙や絵を渡したような気がする。何を書いたかは覚えていない。お兄ちゃんが描こうっていったのだろう。

兄がスーホの白い馬の本を見せながら、赤ちゃんの名前を考えたと話しているのを、母の横で聞いていた。素敵な名前だなと思った。
母は「赤ちゃんの代わりにしっかり生きてね」に類することを言って、私はそれに頷いた。

その帰り道、バス停までの暗くなった道をおばちゃんと兄と私3人で歩いていた。歩きながら、ふとおばちゃんが泣いているのに気づいた。
私は(おばちゃんはなんで泣いているのだろう)と思って
「おばちゃんはなんで泣いているの?」って横で歩いていた兄に聞いた。
小学5年生の兄は「赤ちゃんが死んで、悲しいから泣いているんだよ」って教えてくれた。ただ(そうなのかぁ)って思った。


小学2年生の当時の私は、まだ死について理解していなかった。
人の死というと、3−4歳ぐらいの時に葬儀場で火葬の煙突を見たような思い出はなんとなくあったぐらいな、印象だった。

数日後、母の退院日に父と兄と病院にお迎えに行った。
帰りがけにおもちゃを買ってくれると言われて、電気屋さんで動物の母子セットのぬいぐるみを選んで買ってもらったのを覚えている。

母が帰ってきて。
そして夏休みになり、例年通り田舎に行き、私たち家族の生活は、弟がいなかった時と変わらない生活に戻っていった。
私は弟のことを忘れていった。


そして、小学4年生になって、いのちの大切さを意識したとき。
『弟の死を理解していなかった』ことに唐突に気づき、すごく後悔することとなった。

小学4年生、9歳。いのちへの罪悪感を知る。

小学4年生の私は、まだいのちの死がもたらすものをわかっていなかった。
ただ生き物は大好きな、わんぱくな女の子だった。

休みの日は、クラスの友達と川で魚を捕まえに行ったのを覚えている。捕まえた生き物は家に連れ帰って、育てようとした。自室でザリガニとドジョウと、金魚を育てていた。おたまじゃくしも毎年、育てていた。カブトムシも青虫も育てていた。生き物と触れ合うのが好きだった。

川で育っていた魚は、当然ながら、バケツではうまく生きられず死んでしまう。家に連れ帰り、育て、死んでしまったら、お墓をお庭に作る。

カブトムシ、怪我をしていて保護したけど死んでしまったスズメ。
屋台の金魚、サカナ。

庭の端にお墓を作る。時折摘んできた花をお墓に置く。
生き物が死ぬことは、そういうものだと思っていた。
季節が巡るのといっしょ。
(”生き物が死んでしまったら、お墓を作るもの”という考えはたぶん母親から教わった。幼稚園の時に母と散歩していた時、鳩が道端で死んでいるのを見つけ、その場で母が鳩のためにお墓を作って、いっしょにお別れをした、その記憶がはじめかもしれないなと思う。)

何回捕まえてきた生き物のお墓を作っても、天気が良ければ、意気揚々と友達と川に出る日々を繰り返していた。



そんな私が最初に生き物のいのちと死を実感したのは、部屋で飼っていたザリガニが逃げ出した時だったと思う。

ある日の私は、水槽の水を換えるため、洗面器にザリガニを移していた。
捕まえてから1年以上。うちでいっしょに暮らしたザリガニ。
冬も越し、脱皮を重ね、だいぶ大きくなっていた。そんなザリガニに、その日使った洗面器は浅すぎたのだろう、ふと気づくといつのまにか洗面器からザリガニはいなくなってしまっていた。
作業をしていたのは私の部屋だったので、部屋中を半日かけてひっくり返した。しかし、ザリガニは見つからなかった。

当時の私の部屋は庭に面した部屋で、庭に直接出られる場所があった。
開けていなかったはずだが、何度探しても見つからない。
家族からも逃げたんじゃない?諦めたらと言われる。
きっと庭に逃げてしまったのだろうと…捜索を打ち切った。

しかし、その日から2ヶ月後。
掃除をしていた時に、彼を発見した。
ベッド脇の隙間に転がしていた、画用紙を筒状に丸めたものの中に。

その中に、すでに生き絶えたザリガニさんがいた。
強いショックを受けた。苦しくて悲しかった。

なんで、もっとちゃんと探してあげなかったのだろう。私が見つければ彼は死ななかったのに。そもそも庭に逃げていたとしても、水がないところでザリガニさんが生きれるわけはないのに。

私はそのことを、こんなに探しても見つからないのだからと…見ないふりをした。

あともうちょっと丁寧に探していれば。筒に入りたがるのが、ザリガニの習性なのは知っていたのに。
ザリガニさんは、水槽を飛び出して自由になったかもしれないが、安心を求めて筒に入ったのだ。きっとそこで待っていた。

私のせいでザリガニさんは死んだんだと、とても怖くなった。

死んだザリガニさんのそばに私は寄れなかった。
それまでは自分で触れることができていた生き物の亡骸を、直接触ることができなくて、母に庭に埋めてもらった。

そのことをきっかけに、もしかしたら私は知らないうちに、いろんな生き物を私のせいで死なせていたんじゃないか、と怖くなった。

先に書いた魚のこと、夏に飛んでいたら叩いて殺す蚊の一匹一匹。
私と出会わなければ死ななかったいのち。
ひとつひとつに頭の中で、ごめんなさいをして。


そして考えるうちに、2年前の弟のことを思い出した。

そういえば赤ちゃんが死んじゃったのに、私は悲しむこともなかった!と、その時に気づいたのだ。

弟の死が悲しくなかった自分に気づく

赤ちゃんが亡くなったあと、おばちゃんが泣いていることの意味さえ、私は理解できていなかったことに衝撃を受けた。
いのちが消えたのことについて、私は当時ほんとうに、くじに外れたぐらいにしか思ってなかったことに気づいて、愕然とした。

「私は私の弟が死んだのに、何も感じていなかった。くじに外れたぐらいに思ってた!」

「おばちゃんが泣いている意味もわかってなかった」

「母の退院の日の帰りにおもちゃを買ってもらったけど、鳥の母と子セットの人形とか、赤ちゃんが死んでたのに、母はどう思ったんだろう」

「入院が終わったから友達に話していいの?って聞いていいよって言われて、学校で、お母さんが入院してたの赤ちゃんがいたから。でも、死んじゃったんだよ。ってふつうに話してた!」

色々と衝撃を受けた。

私はなんて馬鹿で、ひどいやつなんだろうとそう感じた。
私には弟がいて、死んだのだ。
そして、そのことに何も思えていなかったひどいお姉ちゃんだった。
そのことを自覚してショックを受けた。2年越しのことだった。

私は弟のことを知りたくなった。
誰かに聞いてみたかった。

けれど、この2年間で弟の話題が家族で出たのは一回で、母はひどく悲しそうな顔をしていたのを覚えていた。
私は2年以上経った今更、なんて聞いていいのかわからなかった。今思えばたった2年だけど、こどもの頃の2年はだいぶ昔のことのように感じられた。

何より、弟の死を悲しんでもいなかった事実が、命を大切にしていなかった罪悪感が邪魔をして、そんなひどい自分であることを母にそれを知られたくなくて、何も聞くことができなかった。


2年前のすでに、おぼろげな記憶。お墓がない弟。

当時7歳だった私は、赤ちゃんが死んだのに悲しめなかった。
そのことに気づいた9歳の私は、ひどく罪悪感を持った。

小学4年生、いのちの死を意識してから、わたしが無邪気に扱い、死んで土に返した生き物たちには、お墓で「ごめんなさい」って、改めて彼らにお花をそえて謝った。

でもそれをしたくても、そういえば弟のお墓がないと気づく。

母の退院の帰り道、赤ちゃんのお墓はどうするの?って母に聞いた記憶があった。
死んだらお墓に入るものというのは墓参りで知っていた。
赤ちゃんのお墓は、病院でやってくれるのよ、と母が言っていた。

だから、赤ちゃんのお墓はなかった。
病院にあるというお墓に、私たち家族が行くということもなかった。
だから、弟に対しては、他の生き物たちのように謝れる場所や機会がわたしにはなかった。


気持ちがふわふわして、どうしていいかわからない。

でもお母さんには聞けなかった。困った気分を持つ中で、当時の私が思ったのは、じゃあせめて、弟のことを覚えておこう、そう思った。
私は、その時点で、ひどくおぼろげだった2年前を必死に思い出すことにした。母に直接聞けない臆病なわたしができる唯一のことだった。


弟が生きていた時のわたしの記憶。

しかし小学生の2年間というのは吸収するものが多い時期である。

日記にもしていない、物的なものはない出来事は正直すでにうろ覚えだった。
小学2年生の時に弟がいた、ということすら、1年生だったら初めてのプールでもっと印象的だったのではないか、確かお兄ちゃんと赤ちゃんが生まれたら何歳差だね、と話していた記憶から、この年齢だったのではないか、3年生だったらもっと覚えていたんじゃないか?という推理からで、実は確かではない。

弟が産まれた(亡くなっていたとしても)誕生日の日付も覚えていない。
元々の予定日だってあやふやだ。
母が入院していた病院の名前も覚えていない。場所もバスを乗り継いだ場所にあったぐらいの記憶しかない。

そもそも、私は弟を見ていないのだ。
母のお腹越しに触れた感触すら曖昧だ。弟自身のことは何も知らない。

赤ちゃんはなんで死んだのだろう?
どれくらいの大きさ?どんなお顔?手足は?

図書館の本で、弟がなくなった時期はどれくらいの赤ちゃんだったのかを見て見たりした。
お腹の中にいる赤ちゃんを胎児ということを知った。大きさは500g。手足はある。けれどイメージはつかなかった。

私は何も知らない。
それがとても怖いことに思えた。
せめて、弟がお腹の中で生きていた私の時間の覚えていたことを、覚えておけるようにしようと思った。(冒頭で書いた当時の様子はこの時に思い起こしたものである。)

そうやって今の私になるまでに思い出して覚えている記憶はなんとないものである。

けれど、弟が生きている時の記憶でわたしにとっては大切な思い出でもある。

母が入院中に私がよく買ったお惣菜のちくわの磯辺焼き。惣菜の唐揚げの値段と個数を見比べたこと。当時の庭の景色。
一度お兄ちゃんと二人だけでバスに乗った時のドキドキさ。病院の入り口の形、鳩がいたこと。鍵を忘れて困ったこと。

小さい小さいことを反芻した。

そして、カレンダーとにらめっこして。
多分、この日だろうという日を、私の中で弟の誕生日に決めて、ノートに書いた。

毎年お祝いされない誕生日を私は祝ってあげようと思った。

弟の名前は、入院中に兄が母に伝えていた赤ちゃんの名前を、弟の名前ということにした。誕生日と名前を頭の中で繰り返した。

そして赤ちゃんが死んだ後に母とした約束「赤ちゃんの代わりにしっかり生きてね」を守ろうと胸に決めた。

それが悲しんでいる母に対しても、赤ちゃんに対しても、それが、私が弟にできる精一杯だと思った。それが罪滅ぼしの気がした。


人からなかったように扱われる、そういう命

赤ちゃんの弟が死んで、
数年。弟の死んだことをちゃんと認識して数年。

毎年の誕生日には一人こっそり、お祝いをして話しかけた。
その年の、私と兄と彼の年を指折り数えた。小さい近所の子供たちを見ながら、生きていたらこれぐらいだったのかな、って考えて過ごした。
生まれて、産まれられなかった弟を、私はそうやって想っていた。

私には弟がいた。
それを私は知っているけれど、ある日ふと思う。

(本当に赤ちゃんはいたのかな??)
弟は私にとっていたという証明が何もない存在だった。

記憶は小学4年生が必死で思い出したものだけで、お墓も仏壇もない。
物的に証明できるものがない。
家族の話に出てくるわけでもない。
(本当に弟はいたのか?私の空想じゃないか?)と思ってしまう。

こどもの私自身は、弟の肉体を見たり、触ったりしていない。
彼がいた確かな記憶はない。

祖父母が赤ちゃんのことを知っていたかすら、私は知らなかった。
名前すら、兄が決めたもので誰かがその名を呼んだのはその時だけだったから、記憶の名前があっているかわからなかった。

親が、入院前にまだ友達に言わないでね、と言ったこと。
赤ちゃんが死ぬことは一般的に悲しいこと。
悲しい話や難しい話はあまり人に話すものではない、そう思っていて、話題的に友達に話してこなかった。

そして世間一般からすれば、お腹の中で死んだ胎児を、その赤ちゃんを子供の人数として数えていなそうだった。きょうだいとして扱わない。

弟は表面上はいなかった子供だ。
何人兄弟なの?と聞かれたら二人ですと答える。

三人と答えるのは、弟の死を認識できていなかった罪悪感がでてくるし、両親が話題に出さないできたことを話すことになってしまうし。
だから、違和感やいろいろ想いはありながらも二人兄弟ですと行っていた。

私には弟はいない、その認識の方が一般的なんだろうなって思ってた。

ドラマや物語で、流産や死産した母親に子供を失くした両親にだって、その子のことは忘れなさいと言ったりするし。
お腹の中で亡くなった命は、薄れていくのが普通なのか。

日々の生活で記憶が薄れる中で、唯一弟のことを話せるとしたら
お腹で彼を育てた母だったけど。

しかし、悲しいことに対して過敏になっていた母に、彼の話を出さない母に(だって本では忘れた方がいいって言うぐらいだし)、あえて悲しい話題である私からは弟のことについて触れることができなかった。

自分の空想じゃないかと自分の気持ちや記憶を不安に思うけれど、
年一回ぐらい、母の吐露する悲しみの中に赤ちゃんの話があると、弟がいたのは私の思い違いじゃないとホッとした。

けれど、その場面では、私は痺れたような悲しみで固まってしまい、弟のことは聞けなかった。
悲しむ母になんて言えばいいかわからなかったから。

あの子が死なないで、生きていたらよかった

子どもを無事に産んであげられなかったお母さんの悲しみは深かったと思う。そしてその悲しみは、あるのはひしひしと感じるのに。お母さんはその悲しみを表には出さなかった。

ときおり、その沈み込むような空気みたいなものを感じていた。
そんなお母さんのこどもを失った悲しみを、お父さんはうまく受けとれていないように、子供ながらに感じられた。
むしろ、生活の中で母の情動に不機嫌な父の顔の方が記憶に残っている。お父さんがお母さんを慰めているシーンはあまり記憶にない。

そして、お母さんはどうにかしようとして悲しいことを信仰で癒すようになる。

もしかしたら母に信仰を持った理由を聞いたら、実際は違うというかもしれない。けれど何回か信仰のことを話した時に「あの子はどうやったら救われるの」「私はあの子に会いたい」という言葉を聞いているから、信仰を持った理由の一部ではあるのは確かだろう。

そして違かったとしても子供の私はそう理解したから、信仰によってもたらされる家の中の慣習の変化への困難さや、母の信仰に対しての複雑な思いを表に出すことができなかった。

しかし、こどもながらに、なぜ神様をお母さんは信じるのだろうと考えて。
お母さんが持つ苦しみは、私が弟に持った罪悪感や悲しみなんて、比べものにならないほど深いのだろうと思った。

両親の仲も険悪になり、兄も閉じこもりがちになり、私自身も自分の価値観を持てるように右往左往する中で、家族はうまく機能しなくなっていた。

中学生になる頃には、弟が死ななければ、こういう家族の形にならなかったのかなと思うことが増えた。 
(弟が生きていたら、母は神様にはまらなかっただろう。)
(そんな暇もなく子育てに追われていただろうな。)
(その中なら両親も険悪にならなかったかもしれない。)
(兄も昔のままだったかもしれない。)
そんなことを思っていた。 


(あの子が死なないで、生きていたらよかったのに。)

中学生になった私は日々居心地の悪さを感じる家庭の中で、よくそう思ってた。弟が死なないで、生きていてくれたら、私たち家族は違う形だっただろう、と。

けれど時に癒されるわたし

けれど同時に、死んでしまったのだから仕方がないとも、ちゃんと思っていた。ちゃんとわかっていた。 

弟はすでにいないのだ。 私にとっては過去であった。
『弟が死んでしまったのは変えられない』

『母が言っていた通り、弟の分も私はしっかり生きていく。』 
それしかできないよな、と思った。

私にとって弟は、もともと直接触れることもなく。子供の私にとっては姿も名前すら空想の域をでない存在だった。
だからか、元々の性格かわからないけれど、弟が死んだことの罪悪感や悲しさを私は時間で癒した。
そこから得れる事実と希望の部分だけを意識するようになった。

確たる記憶がないということが、きっといいように働いたのかもしれない。

弟の存在とその時の母との約束を、10代半ばの頃にはそれなりに、生きていくための力に変えた。
ときおり、弟が生きていたらと思う日々はありながらも、10代後半になると誕生日に頑張って生きようと思い出すぐらいになっていく。

弟のことを思い出と希望にできはじめているなあと、当時の私も思っていた。

そして、そこまでだったら、私は弟のことをあえて文章にしなかっただろう。
だがしかし。

ハタチに近くなり、一人暮らしをしたいなぁと、部屋の大掃除をしていたある日。私は押入れの奥にひっそりとあった弟の骨壺を見つけてしまって。

『弟が死なないで、生きていたらよかったのになぁ』じゃなくて『もしかしたら、あの子は最初から存在しない方がよかったのかな?』と考えることになる。 


ある日、弟の骨を見つける

弟の骨壺が、自分の部屋の押し入れ(家族の共有のものも入っている)から出てきた。その衝撃はなんとも言えないものであった。
当時一人暮らしをしたがっていた私は、押入れの整理をしていた。収納の一つ一つの箱を開けて、何が入っているか、出先に持っていけるものはないか、なんとなく見ていた。

押入れの奥、あまり触ったことのない収納の箱の中。その中に白い布に包まれたものがあった。なんだろうと手にとってそっと開けてみると、何かで見たことがある骨壺のその小さい小さいサイズの包みが入っていた。

包みから、陶器でできた、小さな骨壺をそっと取り出してみた。
命日の月が書いてあった。

(なんだ、こんなそばにいたのか)、と思った。びっくりした。

その押入れがある部屋は、5年ほど前に引っ越ししてきて、そこから私が使っていた。大きく荷物を運んだりしたことはない。
ということは、私は引っ越してからの5年間、知らない間に弟の骨と一緒の部屋で生活をしていたこととなる。驚きと、両親への「なんでだろう」という落胆を感じた。お母さんもお父さんも”隠した”と思った。

そして悲しくなった。お母さんもお父さんも悲しいことはしまいこんで、なかったことにしたいんだ。そう思った。

母は墓参りをしない信仰だから、わからなくもない。
けど、ずっと気づかれないでここにいた弟のことが、悲しくなった。

この子が死んだ当時お墓は病院にあるって言ってた。
あれはなんだったんだろう?覚え間違いか?そもそも病院で火葬?はないだろうし(週数が小さかったらそういう医療廃棄物として扱われることもあるというのは何かで見てたからそうなのかもしれないとかは考えていたけど)、もしかして最初からうちにいたのかな。

毎年誕生日に、病院が埋葬してくれたという彼のお墓がどこにあるのだろうと、考えていたけれど。
自転車で病院を探してみたりしてたんけれど。

けれど結局場所はわからなくって、訪ねてみる病院の玄関の形にぴんとこなくて。まあしかたないと思っていた。

けど、弟はここにいたのだ、ずっと。おお、と思った。

(抱っこもしたことがないのだから、一番今が近くに触れているのだな)そう思った。そして(うん、かなしいな)と思った。

当時、家出した兄に対して、日々の中でなかったように両親が振舞っていることも合わさって、私の両親は悲しいことはなかったことにしたいんだ、見たくないんだって感じた。
私も死んだら同じようになかったことにしまわれてなかったことにされるのかと思った。


そして。

そんなに悲しいなら、そんなになかったことにされるなら、最初からなかった方がよかったんじゃないかと感じてしまった。

弟は存在しない方が良かったのかもしれないって、そう思ってしまった。
生まれて、死んで、悲しみを与えただけの命。

弟が死ななければと思っていた。

けれど、産まれる前に死んでしまうぐらいなら、最初から生まれなければよかったのかもしれないと思った。
存在しなければ、母の悲しみはなかった。弟は家族が難しくなるきっかけになっただけ。

改めて、お腹の中で死んだ命のことを考えた。
生まれたけど、産まれられなかった命。

少しでも生きて産まれていれば、産声をあげれていたら、その生きている顔を見れたら、暖かい手を触れていたら、まだあたたかい思い出に両親はできたのかなと思った。

この手の温もりを覚えておこうとか、顔を覚えておこうとか。そういう瞬間を家族でもてていたら、弟が生きていた瞬間を糧にして進むことができたのかなと思った。
ただ私たちにはその記憶はないのだ。

母にはあったのかもしれない、けれど記憶を辿れば電話連絡を受けた父はその場に入れなかっただろうし、わたしについては書いた通りである。

私は私の性格と気質で、悲しみ以外も彼の存在から受け取ることができた。

けれど弟が母に渡したのは死んでしまった悲しみだけのように感じた。
そして死んでしまったことがバランスを崩させて、家族を不幸にした。子供の私ががそう思うような状況になった。

なら初めから、この命は存在しなければ、家族を不幸にすることもなかったのか、そう思った。

彼がいなければ、私達はいま幸せだったかもしれない。

(弟は最初から存在しなければよかったのか?)
骨壷をもともと入っていた箱に戻しながら、ぼんやりと考えていた。


悲しい死を迎えた命が悲しい存在で終わるのにむかついた

弟の小さな骨壷が押入れにこっそり隠されている。
そのことが、深い両親の絶望の片鱗のような気がした。

そして、私の中で、
「弟が死ななければよかったのに、一緒に生きたかったのに」が
「弟が存在しなければよかったのかな」に、変わった。
骨壷を見つけたことは、両親に言えなかった。そっと戻した。

なんでここにあるの?って聞けなかった。

隠すしかできない両親に、わたしから事実をつくのは怖いことに感じた。
母は、悲しみがない世界に神様がしてくれる、そういう信仰を持っていたし。なかったことにしたままのほうが、両親にとってはしあわせなのかもしれないと思ったから。悲しみを露わにして、そのバランスを壊すのは怖い。
私も、抱きしめた骨壷をそっと押入れに戻した。

表ではそのエピソードはなかったことにした。

(なんて簡単なこと。)そう思った。今までだって、話す相手もいなかったことで、存在や出来事はなかったことと同様だったから。
弟は私の頭の中だけにいたのと変わらなかったのだから。

けれど、骨壷という実態を見たことで、ちゃんとそのことは現実になってしまった。『空想かも、思い出にしよう、過去のこと』が、少し違う意味を持った。現実に浮上してきた。

弟はいて、死んだ。そして、ここにいる。 
 過去にはならず、ここに在る。

ふとした時や家族の難しさを考える時に、
弟は、生まれても産まれられなかったなら存在しないほうがよかったか、
家族を不幸にした事実しかないなら、生まれないほうが良かったか。 
じっと考えてしまう。

弟が死ななければよかったのに(そうだったら、幸せになれたのかも)よりも、一段薄暗い感覚と考察。

けれど、考えても、答えがない分、今まで誰にも話さないできた話題の分、毎回考えた、次の瞬間には、授業だったりメールだったりなんなりの日常に紛れていく。

けど、毎回、同じ質問が頭に浮かぶ。
『弟は存在しない方がよかったか』
『かなしいことはなかったことにしていいのか』
けれど毎回、それはなんか嫌だなって思った。

(それは、絶対認めたくない。)
(それは感覚として嫌。)
(ムカつく)


なかったほうがよかったなんて思いたくないって思う。

何に対してはわからないけれど、睨みつけたくなる。
産まれられなくても、生きようとしていただろうに。それを、なかったことにしたい、そう思うその感覚を認めたくない。

死んだとしても、その生きようとあった部分は大切だ。
死んでしまったらダメなのか。さいごが不幸だったら、かなしいになってしまうの?だって生命は最後は死んでしまうのが普通なのに。

悲しいことになったことは、忘れるべきなのか。
悲しいことは存在を覆ってしまうのか。

私たちが私が彼を知っている人が、不幸になってしまえば、時間が止まったような家族が続けば、『悲しい存在になった存在は最初からいなければ良い』それが事実になってしまう気がした。

 存在しなければ害がなかった。
存在したのに幸福を残していない。

弟の存在が私達をダメにしたという事実は割と目の前にあった。 

でも、そうじゃないって言いたいと思っている。それじゃ、なんか悔しい。何回も同じ感覚を咀嚼して、考えた。

ならば。そうならないためにどうできるかなって、考えた。  私は弟がいて、よかったと思いたいのだと、何回も確認した。
死んだとしても、姿を知らなくても。いたのだから。


そのためには、今が難しくてもその先にある、素敵なものを見つけるほかないと思った。
あなたのことを考えた、知っている私自身がちゃんとステキな人生を歩むこと。そうしたら、あの子の存在はプラスな意味を持つ。
悲しい命を悲しいで終わらさないようにできるのは、生きている私達だけだと思った。

死はどうにもできない。

けど、彼の命の存在の意味を悲しいだけじゃないものにできるのは、それは生きている私達にしかできない。悲しい存在にしないこと。
弟の存在があったから、私はこう生きれたよ、の部分を作って生きたいと思った。

この考えを、何回も咀嚼して。
私の中にあった”あの子が存在しなければ”という気持ちは少しずつ少しずつ薄れていく。

私は信仰を持たないので、死後に死んだ人に会えるとは、あまり信じていないから、私の頭の中にいる空想の弟の存在に、笑ってもらえるような日々を歩むほかない。その誠実さを持って過ごしていくこと。

それが姉としてできること。

私は、弟を悲しいだけの存在にはしない。したくないと思った。


胆に力を込めて、胸を張れるように生きていく


「考えるのも悲しい」そういう何かを背負った命。
それを悲しいままで終わらさないようにできるのは、生きている私達だけ。
気持ちを何度も咀嚼した結果に、たどり着いた考え方は、私を支えた。

けど同時に、この価値観を母に当てはめるのは、酷なことかもしれないと思っていた。
この考えが私に合っただけだから。万人ウケするかはわからない。


なかったふりをする両親について、弟と同じ彼らのこどもとしては、とても悲しい。
けど、辛くてしまいこんだ方が楽になるなら、それもいいのかもしれないと思っていた。事実に向き合うのは痛いことだ。

子供を亡くすということは、言葉だけ考えても、受け止めきれない痛みだろう。忘れたいなら忘れていいのかもしれない。
なかったことにできるならそれでいいのかもしれない。

(弟のことは、その分私が覚えておこう。)そう思った。

でも冷静な私は、結局忘れられるはずはないのだろうとも思っていた。

忘れたくて忘れられたことなんて子供の私だって、ないと知っていた。
所詮ふりしかできない。それなら、ちゃんと認める方がいいんじゃないか。

けれど、それを母に指摘することはできなかった。

いつだったか、母と亡くなった命について少しだけ話しをする機会があった。天国で亡くなった子供に会うという信仰について話す母。
そんな母に、私たちにできるのは、その存在が悲しい存在にならないように幸せに生きることじゃないかな、意味があるように。それが救いになるんじゃないかな、というような話をゆっくりした。

母からは、それじゃあ、その子の存在自体は救われないじゃないか、と言われた。

…うん。

確かにそれは、私たちにはどうにもできない。


母はその存在自体を救ってくれる存在として神様を求めていた。
私は母のその痛みがわからないし、癒してもあげられないなって思った。

かといって、私の中にあった「存在自体はどうあがいても救えないのではないか」なんてひどいことは言えなかった。
そんな話をした時も、直接骨壷のことを話すことはできなかった。

家族との色々なやり取りの中で、最初は私たち家族が不幸にならないように、そうならないように過ごそうと思っていたけれど。


だんだんとせめて弟のことを知っている私は幸せに過ごそうと思うようになった。

そして、数年後。 

私は家を出た。

家を出るときに、さすがに彼の骨壷をさらってはいけないから、せめてと部屋にあった私の本棚に小さい骨壷を出した。
私の子供の頃のおもちゃと、好きなもので弟を囲んだ。

なんとなく陽当たりがいいところに彼がいる。
それになんとなく満足して、私は実家を離れた。
死んだ弟とこっそりいっしょに生きてきた私(気持ち的にも物理的にも)は、弟を忘れず、なかったことにもせず、弟に胸を張れるように生きていく。


大人になったわたし

その後私は、小児科看護師となって。
そして数年後、周産期の現場に関わることとなる。

弟が最後に過ごした場所、当時子供だった私は知らない母が過ごした時間。その時そばにあった環境、医療者のあり方。
そういうものを知ってみたいと思って。


こどもの死や、出産のこうなって欲しくなかったは避けられない部分も多い。
出産へのイメージはハッピーなもののようなイメージがあるけれど、だからこそ難しかった場合の振れ幅の大きさがある。

その中で、救命はもちろんであるが、どうしても終えてしまうものについて、私たち家族みたいにならないようにどうできるんだろう。
どういうケアがあるんだろう。どうできたら理想だったのだろう。

死んでしまった存在が、悲しいそのものにならないように。
生きている私たちができることはなんだろうか。
それを頭におきながら、働いた。


今思えば、あの時期はかなり精神的に落ちていたので、弟の生きていた環境を知りたいというのは、そこにある医療者がどのように支援をしているのか知りたいという気持ちは、わたしを生かしてくれたと思う。

弟によって生かされた、そう思う。
ありがたい話だ。

弟がいてくれたから出会えた出会いがたくさんあったと思う。

そういう意味で、弟は本当に確かにいたし、いてくれてよかった。
今の私は疑いも何もなくそう思える。

弟よ、おねえちゃんはがんばるよ。




長文ここまで読んでくれた人がいたらどうもです。
一応ここまで読んでくれた人は何かしら、死とか生きるとかに思いがあるんだろうと思うので、なんか情報つけておきます。


もし死んだきょうだいと自分、という目線でnoteをここまで読んでくれた人がいて、あたたかい歌という感じを聴けるのであれば聞きたいのであれば、星野源の歌はなんとなくおすすめ(youtubeはなかった)、思い出があれば書いてって。


もし子供を亡くした親御さんでもし誰かと話したい思いがあったりして、ここまで読んだ人がいれば、そういう会はけっこうあるよとお伝え。
一応どこかであげておくとするなら、都内なら聖路加国際大学で家族会やカウンセリングがあります。カウンセリングは祖父母なども対象になるし、人工死産を選んだ方向けの会もあり。ここはペリネイタル・ロス研究会という周産期の現場での家族支援がよりよくなるように医療者向け勉強会もしているところ。病院名的に宗教色を感じるけど、支援される方はそうではないと思う。
あと、話言葉にしなくても、単純にnoteやツイッターでつぶやくのはありです。言葉にしておくのいいなってなるのは、忘れても大丈夫になるところ。忘れずにいられるところ。忘れたくないことを書いて大切にしまっておくことで、いつだって思い出せるところ。忘れるのをこわがらなくてもよくなること。そしてそれを見せて伝えると言うことができるところ。それに誰かと繋がれるかもしれないこと、わりとありです。


あと死産に限らず、今現在そういうのなんか話したいなって思っていてここまで読んでた人がいるなら。
東京で言えば、グリーフサポートせたがやさんただ同じような体験がある人同士話す場を紹介しときます。パートナーを亡くされた方だけでのプログラムもあったり、こども向けのプログラムもあるところ。お子様連れでも参加しやすいと思う。あとは、こういうものについてのいろんな講演会をやってたりするので、話すのはいやだけど考えたい人にも入りやすいところ。同じことを考えている人がいる、言葉は交わさなくてもってそれだけで力になるから。

一応ホームページに死別体験など10代のグリーフに悩むこどもたち向けのパンフもあったりhttps://sapoko.org/Tips_for_Grieving_Teens.pdf
あと、友達の自死、家族の死を経験した生徒など、アメリカの教育現場での取り組みの記録についてのDVD売ってる。予告編→https://vimeo.com/151539899


あ、もしお子さまとその近しい人の死の対応について何か考えることがあって、ここまで読んでくれた方がいたら、ガンになった親御さんとこどものためのこちらのサイトはわかりやすいとおもう。

子供向けの喪失体験(死別など)のサポート団体をさがしたいならこちらのページ。

とせっかくならと、今浮かぶだけの情報を載せておきます。


あ、もし亡くなったごきょうだいの思い出(もしくは亡くなったごきょうだいが生きていた時の自分の思い出)、亡くなったお子さんの思い出など書きたくなった人がいたら書いてってください。
わたしはいまだにちくわの磯辺上げをはなまるうどんに行くと食べてしまうし、退院の日に買ってもらったおもちゃのことを思い出すと切なくなります。

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