「おかあさんはこどもを愛している」という呪い
お母さんはこどもを愛してくれる存在、という魔法の言葉にずっと呪われていた気がしている。少し眼が覚めた気分だ。
私はなんでこんなに「おかあさん」を恋しがっていたのだろう。
いつ、こんなに理想のお母さんを刷り込まれたんだろうと思う。書けば何かわかるかな、と書きなぐってみる。(ほんと書きなぐりです。)
最初に前提として、私はお母さんが大好きだ。
それはもう、普遍のこととして。苦しくなるぐらいに。
か弱く、優しい母。真面目で、善良な人。母はそういうイメージ。
十代の頃、この両親は私が思う形では頼れないんだってわかり、お母さん・お父さんというふうに呼んでいた呼び名をあえて違う名称に変えた。そういう人に対しても、私はいつもどこかで、私の「おかあさん」「おとうさん」であってほしいと思っていた。
またそう呼べる日をどこかで願っていた。
「おかあさん」「おとうさん」という言葉をあえて使わなくなって。逆にすごくそれに胸が苦しくなるような郷愁を感じていた。
ただ私の中に母をそのままで愛せない気持ちや、もっとお母さんとしていてほしいのにいてくれない、苦々しい思いを持っていて。
それを考えては、苦しくなっていた。
しかし、この一年で思う。
そもそもなんで私は、おかあさんという存在に、
ここまで思いを募らせているんだろうって。
私が求めている「おかあさん」ってなんなんだ?と。
恋い焦がれ過ぎて、逆になんで私はおかあさんにそんなにこだわっていたのかと、それをすごく不思議に思うようになった。
私の目の前のお母さんは「母」しかいない。
けれど、いつの間にか私は、理想の私を愛してくれる「お母さん」を母に求めている。そしてそのお母さんの理想の娘になれない自分に苦しんでいる。
いったいなんでなんだろう、と。
私はもう大人で。
母という存在は子供のお母さんである前に、一人の個人だと理解している。
なのに私自身の母に対しては、お母さんでいてくれないことに苦しむ。
お母さんにお母さんであってほしいという思い。
考えた。
私の中の、このおかあさん信仰とも言ってもいい感覚はいつ芽生えたのだろう?どこからきたのだろう?
おかあさんは、最後には私のことをわかってくれる。
受け止めてくれる。
今がうまくいかないだけで、いつか昔みたいに愛してくれる。
こどもにとっておかあさんはおかあさん。
多くの人が母親像をそういう風に語る。
こどもを無条件で愛して、受け止めてくれる存在として。
母なる大地って言ったり、母性愛って言ったり。母という言葉や存在は、命の源として神聖化されたり、絶対的な安心として使われたりする。存在をわかってくれる存在。何があっても受け止めてくれる存在。
けど、言ってみれば母親もただの人間だ。
神様ではない。すべてを受け止められる訳がない。
その刷り込み。
私達はどこから得たのだろう。
絵本なのか、幼児教育なのか、NHKなのか。
女性の社会進出とともに?
戦後教育とともに?
もっと出産と絡む、原始的な何かなのか。
親は何があっても子供を愛してくれるものよ。
何があってもお母さんは君のことを好いていてくれるよ。
そういう大人のささやき。祝福の言葉。
「ママは〇〇ちゃんのことが大好き」という言葉。
母と子の関係では当たり前のもののように扱われることば。
いったいどこで刷り込まれてきたんだろう。
けれど、私も仕事の現場で子供たちに言っていたりする。
ママに叱られたと泣く子供に。病院に置いていかれたと泣く子に。
「ママは〇〇ちゃんが嫌いなわけないじゃないよ」って。
前提で大好きな母と愛されているこどもに関わる第三者として振る舞う。(もちろん、明らかな家庭問題があれば違う対応をするけれど)
少し大業に魔法の言葉を使う。あえて言葉にしなくてもその前提で語りかける。お母さんなら大丈夫と、慰めたりする。彼らの力になるように。
大切な魔法の言葉として。そうやって刷り込んでいる。
けれど、今大人になって。
今その繭に包むような魔法の言葉は、私にとって呪いの言葉でもあったのだと、感じる。
そこを感じてあえて文章にしてみている。
(おかあさんは私を愛してくれている、だからもう少し期待に応えるよう頑張ろう。)
(おかあさんは、疲れてるだけ。きっと元気になったら話を聞いてくれる。きっとわかってもらえる。)
親というものはこどもを何だかんだ愛しているものである。
その魔法の言葉の甘さに、私はいつだって諦めがつかないできた。
私はいつからか魔法だけを見て、母にそのお母さん像を見て、彼女本人を見ていなかったと思う。
お母さんは、何をしたって愛してくれる。
お母さんはいつだって、子供が大好きなのよ。
そんな訳はないのだ。
そういうのはまやかしで、ただの幻想だったと、やっと思う。
いやいやそんなこと言っても、腹を痛めて産んだ子のことを嫌うわけないじゃないとも言える。それだけ出産も育児も大きなことだ。
そしてそれも事実なのだ。
たぶん恋人とか異性関係で考えるとわかりやすいのだと思う。そういう時にお互い理想を持つ。子の人とはずっと愛し合っていける。夫は私のことをちゃんと見てくれている。私たちはお互い全部理解し合える関係だよね、とか。そういう幸せな文言。
そりゃ、付き合った結婚した、ならそうであってほしい部分。
でも実際の現実はそれだけじゃないよねー、の部分。
そんなに上手くはいかない。でも、聞かれたら、そうだよと答える部分。そうでなきゃ付き合わないよね、の部分。
この魔法は、現実を過ごすうちにあーこれ魔法だったな、と解ける。現実と折り合いをつけていく。ちゃんと日々の中で。
白馬の王子様はいない。好きな人と一緒になって何もかも忘れてハッピーエンドなんてない。魔法の言葉はただの言葉とわかっていく。
そういうものからは、割と眼が覚めるのが早かった。けど、私は母と子のそういう魔法からは全然眼が覚めなかった。呪いにまでいった。
何か歯車が上手くいけば、また。と思っていた。
世の中で大人が離婚した子供は全然可愛くないと呟いたり、職場のおばちゃんがなんでか三番目だけ全く好きになれないのよね、と笑ったり。
そういうので傷つく。大人に対して憤る。
けれど、子供と関わる仕事に就き、世間的にも育児をする母親の難しさや愚痴が露わなものになる中で、やっと感じる。
私の母親だって人間だと言うことを。
今の私と10ぐらいしか違わない年齢の女が、こどもの一心の愛情を受け止めれるほどしっかりしていたなんて、そんなことはないだろうと。
きっと子の一つ一つや日々の雑務の一つ一つに一喜一憂し、全てが嫌になったりもする。それが当たり前だ。
ママとなったことの喜びがあっても、それはそれだけで持続性があるわけでない。日常のしがらみは重い。
それに親になることは、その人自身のそれまでの弱さや、目をつぶってきたことを突きつけられたりする。変化を求められる。
それへの対処の難しさがそのまま子供にぶつけることもある。
親だから完璧ではない、そういうあたりまえの事実。
なのに子供にとって親は、育ててもらう存在として衣食住の絶対的主人だ。生きていくための絶対的で唯一の他者としてそこにあってしまう。
そこに「お母さんはあなたを大好き」という魔法の粉がかかる。
本当に神様の完成だ。
いったい何なんだろう。
そして、親たちもそうでないとわかっていながらも、良い親のフリを保とうとする。魔法をかける。信じていてもらった方が楽だから。社会の目も怖いし、子供の実直な目も、怖いから。
そして、こどもと親に関わる第三者は、お母さんは子供を愛していると伝え、刷り込む。
母に、〇〇ちゃんもお母さんが大好きなのよと伝える。
そうして愛し愛される、ハッピーエンドを信じる家族が出来上がる。
悪いことではない。
でも、これってなんなのだろう。
もちろん「お母さんはどんなことがあっても子供を大好き」これも嘘ではない。ただその勇気づける言葉が、本質から目をそらすだけの、まやかしの言葉になってしまうことがある。往々に。
私は考えてみれば、
親から直接「好き」なんて、言われたことは記憶の中にない。
けれど、私は愛されていると思っていた。
誰から言われたんだろう。どう思い込んでいたんだろうと思う。
幼い時には言われていたかもしれない。赤ちゃんの頃は囁かれていただろう。でも、そのあと十数年間言われていない。
なのに私は愛されているものだ、だから期待に応えなくてはと勝手に思っていた。勝手に思い込んでいた。
もちろん、親に私のこと嫌いなの?といえば否定する気がする。
けど、もはや。
否定したところで、それってなんなんだろう。
苦しく感じる関係性の中で、それってどういう意味を持つのだろうと思う。
示されない愛情。
確認しないと見えないもの。
他人同士の関係だったら、もはやそれって愛していると言えないのでは、と言えるのに。家族の中では難しい。
ちゃんと事実だけみれば、そういう解釈になるはずなのに。
ただ、それをずっと理解したくなかった。
母親というものはこどもを第一に考えてくれるという幻想に捕まっていた。
この人は親で、私を育ててくれたけど、積極的に愛していてくれているわけじゃないということを理解したくなかった。
結婚して子供を産んだ、その人の人生の中にただひょっこりと、私がいるだけということ。
特別なことなんだけど、そこの特別性に魔法を見出し過ぎている私。
そして、そんなことを書きなぐりながら
私ももはや、母を愛していないのだ、と思う。
私自身も母に、好きだと伝えた記憶がない。
ただ、ずっと胸の内にだけあった。伝える機会を脱していた。
それは、家庭内でイベントごとをしない流れだったり、そういうものをことごとく両親が避けていたということもあり、伝えるタイミングが全くなかったということもあるけれど。私に愛していると言ってくれない親に対しての反抗もあった。
そして、先日やっと、育ててくれてありがとうと残っていた愛情を伝えたくなって、30年分の思いを皮肉も込めて、小包と手紙を送った。
そしたら、魔法が解けた。
お母さんがただの人に見えるようになった。
今ぽっかりと空いた気分で、この文章を書いている。
…
何を書きたいのかわかんなくなってきた。
ただ、この手の魔法にかかってる人、多分他にもいるんだろうなって思う。
魔法を信じれば楽だから。
苦しんでいても意味があるように思えるし。理想のために!って。
ただ昔から思ってはいたけれど。
星の王子様が言う「大切なものは目には見えないんだよ」なんて甘ちょろすぎるのだ。
いつか見えるかもと、そんなんに身を委ねるんでなく、大切なものは目に見せる、伝えることが何よりだ。その気概を持たないと。
口も何も私たちにはあるのだし。
そういう手段があるのに、それがあるのに、ここにない、そういうものは、それはないのだ。それでいいのだと思う。
それで何か焦るものがあるなら、伝え合えばいい。魔法が叶うのを待つのではなく。その気概を持たないと。
そう思っている。
ひとまず、了
果ノ子
(色々まとめる前に描きたくなったグダグダしたことを文字起こし。母と子に関わる仕事をしているのに、母親にコンプレックスがあるということは私の難しい部分でした。だからこそ、仕事に生きる部分でもあるのですが、少し気持ちの状況が変わったので、吐き出しです。理想のお母さん像っていうものはいろんなガンになってる気がしています。ただまだまだ整理はできていませんが。いつかおかあさん像のルーツでも調べて見たいところ。)
(私は、仕事を通して、お母さんやこどもに魔法や呪いをかけてしまえる位置にいるから、おかあさんというものに対しては主観も客観も持ちながらゆるく考えていきたいと思っています。)
(しかし、お母さんは私のことを大好きという魔法は、ほんといつからかかってたのか。少しだけその理想のお母さんを見て、母を見てあげられなかったことに罪悪感があります。)
その後書いた、星の王子さまのそれについての文。
言葉と態度の不一致さは減らしたいなって思うし、大切な人には大切だと行動でも言葉でも示したいものです。どちらかだけでも足りないのだと思います。
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