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変えるために、触れること/波風を立てること

変えるために触れることは、痛い。
私が触れることで変わる何かが、怖い。
だから
それはできたら避けたい。


けれど前の記事で書いた、
私の中にある生きるために変化に触りたいという感覚。

それらの感覚をなんとなく遊ばせる中で、なるほどと一つ気づいた。

私が働く場所にとして、病院が割と性に合うのは、
触れる人たちがすでに変わる過程にある人達だから
というのが、大きいのかもしれない。

私が触れることで、
ガラッと変わること・変えることを
恐れなくてもいい、ということは
私の臆病さをカバーしてくれているのだ、ということ。

凪っている水面に、足を踏み入れ、最初の波紋を作るのはなんだか苦手である。イメージするだけで。
きっとワッシャーっと楽しんで飛び込める人もいるだろうけど。

病院に来ている人たち。それは、今の病気の症状より良くなりたい、もしくは嫌が応にも変わらなくてはいけない人たちだ。

凪った世界ではなく、すでにその波紋を受け止めて病院に来たか、
すでにいろいろなもので揺れている人たちだ。
その揺れている水面に足を踏み出すのは怖くない。

そこであれば、臆病な私でもいれる。

なんだか、そう思う。

変わる必要がある人たちが変わる手伝いならできる。


私は、変わる必要性を感じていない、見ないことを選んでいる人たちに
口を出すことが怖いのだ。
そこにあるトランプタワーを崩してしまうかもしれない。

人から見れば、臆病ならそういう場所にいれないのではと思われるかもだけど、私が一番怖いのは「平穏の中の狂気」とか「見ないふりした幸せの中の落とし穴」とかそういう類なのだろう。

もはや、共に見据えるしかない危機にはちゃんと対峙できる。
そこに怖さはない。



ただ、凪っているところの一石を投じることは怖いのだ。

しかし、世の中には、
それでも、触っていかなければいけないことがある。

現在は凪っているものにもあえて。

変えるために、もしくは私が変わるため。

そして私が触りたいのだから。


でもでも、だって。

くよくよした弱虫が顔を出す考えたくなくなる。


こんな気分の時は、
『有頂天家族』(森見登美彦)を読むといいなと思う。

先週、ふと読んでソファーに置きっぱなしだったのを
今書きながら開く。

「流れが淀んでるわ。毛をシャンとしとかなくっちゃね」
「分かったよ。シャンとしとく」
「波風を立てて面白くするのよ」
「波風立てるよ。ずんずん立てるよ」

(有頂天家族 2代目の帰朝)

波風を立てることは、いけないことではない。
ずんずん立てれば面白くなるかもしれない。

森見さんの書く文章の詭弁に乗せられていけば、
面白いところに行けそうな気がする。


有頂天家族は、天狗と人間と狸が暮らす京都の話である。
狸の矢三郎は人間に化けつつ、狸鍋を食べる金曜倶楽部にあえて近づいてみたり、天狗に恋をしたりする。日々の中で、隠れるのを良しとせず、いろいろ波風を立てている。
所詮自分には阿呆の血が流れているのだ、と、所詮我々は狸だと言いながら、面白おかしく生きている。それが小気味良い。

矢三郎の兄の矢一郎が狸鍋にされそうな時、弟の矢二郎と矢三郎はこんなことを言う。

「ー兄さんの絶体絶命の危機だというのに、俺はなんだか妙に面白くてしょうがないよ。ふざけたことだなあ」
「かまわん、走れ兄さん。これも阿呆の血のしからしむるところだ。面白きことは良きことなり!」

(有頂天家族)

面白きことは良きことかな。何回も出てくるフレーズだ。

私は小説を読みながら、
所詮阿呆の血だと、所詮私は人間だと、狸にならって言ってみる。

それはなんだか愉快である。

かって私は、狸として如何に生くべきかという難問に取り組んだことがある。面白く生きる術は心得ているつもりではあったが、そのほかに己が何をすべきか判然としなかった。「どうすべきか分からないときには、何もしない方が得策だ」とは、かのナポレオンの言葉である。そうやって何もしないでぶらぶらしているうちに、これはどうやら面白く生きるほかに何もすべきことはないようだという悟りを得た。

(有頂天家族)


私たちも狸となんら変わりない。

狸にならって、波風を立てよう、
ずんずんと立てよう。
怖がらなくていい。
動けば波は立つものだ。

波を立てていくことを恐れてもしょうがなし。

やろうと思えば人間だって、狸寝入りはできるのだし。


そんなことを思って気分だけあげて、物書き終了。


果ノ子

読み直したらあんま繋がりないけど前回記事。


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