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物語依存症②〜幽霊と誤報〜

幽霊を見たことはあるだろうか?僕はニ度見たことがある。

一度目は小学三年生の時。日曜日なのになぜか朝早くに目が覚めてしまい、そのまま居間のソファでぼんやりしていると当時飼っていた犬がそばに寄ってきた。

居間から廊下へ繋がる襖が15cmほど開いてたのだが、そこを白い服を着た髪の長い女性が横切ったのを見たのだ。突然の出来事に唖然としていると、犬がその後を追いかけるようにして居間から出ていった。

ニ度目はその犬が行方不明になった時だ。家中を探しても見つからず、焦って外に出て探し回っていた。歩道橋に登り周りを見下ろしていると、国道沿いのブロックの辺りで犬が動き回っているのが見えた。

しかし近寄ってみると、車屋に立てられていた旗が風に吹かれ影が揺れていただけだった。

おそらく見間違いなのだろうが、主観的な体験として、僕はそこに犬を見たのだ。
(後から分かったのだが、それよりも前に別の場所で車に轢かれて死んでしまっていた。。涙)

・シミュラクラ現象と幽霊

『あなたはこれが何に見えるかな?』

前回のシミュラクラの話を思い出して欲しい。三つ点が逆三角形に並んでいると顔に見えてしまう現象だ(=顔探知システム)。これを広げて考えてみよう。人が探知するのは顔だけではない。

自分の話を分析してみる。まず、僕は焦って犬を捜索していた。いつも以上に探知システムが過敏になるシチュエーションだろう。そして、探知とは自分の心の中にある”イメージ”と合致するものを視界の中に見つけるという行為だ。

過敏な探知システムが僕の視界に映る”旗の影”を、僕の心の中の”犬のイメージ”と取り違えたのだ。

僕の最初に話した幽霊の話も同様だ。”1人きり”というシチュエーションが探知システムを過敏にさせた可能性がある。”白い服を着た髪の長い女性”もまた僕の中にある、幽霊のイメージであったのだろう。


・サバンナの”けむり感知器”

しかし、何故このような過敏さを我々は持っているのだろう。

これを説明してくれるのが、”けむり感知器の理論”だ。

少しの煙でも過敏に反応してしまい、しばしば”誤報”をしてしまう感知器と、”誤報”は少ないが低感度のため本当の火災にも反応しない場合がある感知器。あなたはどちらを選ぶだろうか?

いや、どちらの方が多くの人の生存にとって有益だと考えられるだろうか?

その答えは後者だとすぐに分かると思う。なぜなら誤報を対処するコストよりも、実際の火災に反応しなかった場合のコストの方が大きすぎるからだ。

”けむり感知器”を我々の持つ”探知システム”に置き換えて考えてみよう。

我々の祖先は、現代とは比べられない程の過酷な環境下にあった。闇の中で眼を光らせる数々の捕食者、得体の知れない敵グループ、それに自然の脅威の中で行方が知れなくなる仲間や家族。

敵や捕食者がこちらに眼をやるよりも先に相手を発見できなければ死が待っていただろう、仲間や家族をよく見ていなければ敵や自然によって失うことになっただろう。

高感度の探知システム故に起きる”誤報”(=見間違い、シミュラクラ現象)を対処するコストよりも、低感度の探知システムが実際の危機に対処できなかった場合のコスト(=怪我、死、喪失)の方が大きいのだ。  

つまり前者の形質を持つ個体の方が生き延びる可能性が高いということだ。

それが現代の環境下では過敏と思えしまう場合もある。進化はすごく長い時間をかけて行われていく。遥か昔から存在する形質が、今も残っているのはそのせいだ。

(これらの話は『最後通牒ゲームの謎』小林佳世子著に詳しい。)

・幽霊という”誤報”

身近の人の死後、その人の幽霊を見たという体験がたくさん報告されている。それは上記のように探知システムが過敏になったせいで、探し求めている”自分のイメージ”と似たパターンのものに強く反応してしまうからではないだろうか。

悲しみに暮れ、幾度となく眠れない夜を過ごす。 

『ほんの少しだけいいから、もう一度”あの人に会いたい』

そのような強い気持ちが、探知システムを過剰にドライブさせ、”あの人のイメージ”を視界のどこかに発見する。

もしかしたら、”誤報”などではなく本当に”あの人”がそこに居た可能性も僕は否定しない。

それが、残されたもの達にとって”意味”(=物語)があるなら尚更だ。

(この話は『なぜ心はこんなに脆いのか』ランドルフ・M・ネシー著に詳しい。素晴らしい本なので是非。)




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