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心の余裕を持ちたいね、って話。

私にはよく行く喫茶店がある。家から徒歩数分。素敵な老夫婦がやっている店だ。
入り口にはエルヴィス・プレスリーとマリリン・モンローの写真が飾られ、まるで彼ら夫婦の若かりし頃の写真かのように飾ってある。とても素敵だ。

11/13 写真を追加。

中に入れば私が大好きな50・60年代のオールディーズがかかっていて、昔ながらのモーニングやランチが楽しめる。

ランチを頼むとカップに味噌汁が入って出てくるところなんか最高。シビれるぜ。
チーズハンバーグ
洋風ハンバーグ

香り高い珈琲、好きです☕︎

いつだって来店すると、高確率で年長者たちが雑談をしている。みんな若い頃からの仲間のようだ。
彼らは日常会話をひっきりなしに喋っている。ふわりと聞いてみると孫のことが多い感じだ。あとは、猥談。老いてなお、である。彼らが生きてきた時代の日本が本当に元気だったことを実感して少し寂しい気持ちになる。

先日とある一人の70代後半の男性の会話が耳に残った(Aとしよう)。お調子者といった風貌で、若い頃は石原裕次郎の映画などから影響を受けたに違いない。
どうも昔の仲間に会ってきたらしく、酒瓶を持って来店した。
A「マスター、俺ウイスキーロックで。」
マ「うちは喫茶店だからないよ!」
A「ここにあるじゃない、金は出すからウイスキーロック、あ、でも演歌でもいいかもな!」
ここで間髪入れずに80歳くらいのマダム(Bとする)が口を挟む。
B「民謡ってのもいいかもね!」
一同、大笑い。僕はこれを盗み聞いて、面白くはないけど会話のスピード感、小気味良さになんだかほっこりした。


50年以上も仲間として生きていくのはどんな気持ちだろう?
SNSもなく、会って話すことで紡いできた友情。数え切れないほどの離縁、時に死別なんかもあっただろう。現代人のファストな人間関係、目まぐるしく変わっていくトレンド、顔も見えない人間を残酷に吊し上げる魔女狩りを楽しみにしている人間よりもよほど美しい。

"老害"と年長者を一括りにして語る人間が世の中にはたくさんいる。彼らは自分がそうならないかのような口ぶりで、今を生きている。だが、何かをこれはこうだ、と決めつけカテゴライズした瞬間に自身が定義している"老害"となってしまうことに気付けない。否定することで何かを達成したような気持ちになってしまう。批判は快楽を生むかもしれないが、その分新たな批判を生む。

人は愚かなものです。何かされたなら別だけど、彼らの時代ならではの経験を興味深く聞いて、自分たちとの違いを考えてみるだけでとても有意義なのに。

老いていたって、彼らは一緒に過ごした仲間、空間、音楽、そのケミストリーによっていつだって20代に戻れるんだ。僕らだってそう。将来、老人ホームでテクノが流れたら踊ったりするんだろう。ウーロンハイが飲みたくなるだろうし、VJやらなきゃって気持ちになる気がする。
そんな未来もありなんじゃないかな。


ちなみに、老害というものが全ての人に当てはまらないとは思ってない。たまにおかしな老人だって当然いる。いきなりキレたり、絡んできたりする人もいる。彼らはみんな怒りと悲しみに満ちた表情をしていて、集団でいるのは見たことがない。(少なくとも私は)

寂しさは彼自身の人生の行いの報い、自業自得な面もあるんだろう。おそらく手を差し伸べても払い除けるだろうから、そこはもう見なかったすることにしようとするのが良いのだと思う。

たまに電車の中で騒いでいたり、場所取りに勤しんでいる年長者たちを老害と定義して怒っている人もいるが、別に電車の中でワイワイやってたっていいじゃない。少し耳が遠いけど、小学生の頃の遠足を思い出して楽しいんだろうなア、と余裕を持って見てあげたい。
場所取りだって、彼らの必死に生きてきた時代背景を考えれば致し方ないのかもしれないよね。


とりあえず、余裕がある人生を送っていきたいと思う。誰だって老いる、考えも古くなる、そして死ぬ。
自分がもし老人と言われる年齢になった時、無理やりアップデートして笑われるより、その生き方にプライドを持って笑われたいと思う。

考えることはやめたくない。それが私に許された最大の娯楽であり、生きる意味なのかもしれないから。


なんだか話が書き綴るうちにどんどん壮大になっていっている。思ったんだけど、私明日にでも死ぬのかな?w とりあえず近隣の住民の方に迷惑だから翌日に即生ゴミとして出せる曜日に死ねるのが理想だな。

まあただのくだらないメモですね。ご視聴ありがとうございました。

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