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生きるということ

1.人は死ぬために生きている 

 「人は死ぬために生きている」というのが、僕の人生における持論だ。人生の目的というものを主題に置いたとき、その答えを見つけるのは難しい。なぜなら、人生の途中に自ら課したものは「目的」ではなく「目標」だからだ。「○○のために生きている」という言葉は、達成し維持できなくなった瞬間に意味をなさなくなる。例えば、「家族の健康のために生きている」という目標があったとしよう。家族が健康であるうちは良いが、家族が不健康になってしまうと、目標の前提が崩れてしまう。このように環境の変化によって崩壊してしまうものは目的にならない。人生において普遍的なものはほとんど存在しなく、自らが体験できる普遍的なものは「死ぬ」ことしかない。そのため、「人は死ぬために生きている」ということが、目的論的な考えによる解答になると思う。

2.死への存在

 最近読んだハイデガーの『存在と時間』から引用すれば、人間は「死への存在」だという。人間は、死を覚悟して生きることで本来的な人間の生き方ができる。しかし、死は必ず訪れるが自らが体験したことを自覚することはできない。人生の総括をしようとしたとき自分は存在しない。死は、個人的な出来事のため、体験のしていない他人が語ることはできない。それゆえ、死によって実現される自己の人生すべてを語ることはできない。

3.今何ができるか

 僕はよく「楽観的だね」と言われるが、そんなことはない。むしろ、とても悲観的で厭世的だと思っている。人生何をしたところで、いずれ死んでしまうため、全て無意味な行動になってしまう。ということは、生きていることは無意味、無駄なことである。かといって、死んでしまうというのは怖く、辛いものである。人は生きることと死ぬことの狭間にいるものである。しかし、死ねないとなると生きるしか選択肢がない。このような消極的な人生において、つまらなく日々を過ごすことはやはり無駄である。この世に生を受けた以上、藻掻き苦しみながらも最大限自らが楽しく生きることが大事であり、死ぬという目的のために生きるということなのだろう。

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