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鮮魚街道七里半#3

 -利根川から江戸川まで-
 江戸時代から明治初期、銚子で水揚げされた魚をなるべく早く江戸まで運ぶため、利根川と江戸川を陸路で繋いだ鮮魚街道(なまみち)をめぐる旅。
二〇二〇年 千葉県我孫子市布-印西市浦部

 ハァ、アーバンもなければパークもねぇ、
電車もそれほど走ってねぇ。

 東武アーバンパークライン柏駅からJR成田線に乗り換える。千葉県我孫子市にある布佐駅に行くのはこれでニ度目。前回はロケハンみたいなもんだったので、今回からいよいよ鮮魚街道(なまみち)だけを歩く。まず気をつけるのは、本日の撮影行を街道のどの位置で終わりにするかだ。なにせ田舎道、歩き始めたら容易に駅などない。何度も地図を見てシミュレーションをしたが、ちょうど自分の足に限界がきそうな付近は、印西市と白井市の市境を跨ぐために地域バスの停留所も無い。テレ東の「路線バスの旅」でよく遭遇する「市境跨ぎ」である。なので、千葉県我孫子市にある布佐駅で降りて最寄りの鮮魚街道に乗り、後半に街道を外れて印西市にある千葉ニュータウン中央駅まで歩くルートにした。自分的には結構な距離だが、果たして完歩できるのだろうか。アイフォーンにZARDの「負けないで」をダウンロードして挑んだほうがいいのではないか。などと撮影とは関係の無いところで悩んでしまっているうちにJR成田線布佐駅に着いた。
 人の気配もなく、仄暗い布佐駅の改札を抜けてトイレに向かった。これからの長旅にコンビニどころかトイレなどない。ここで体の老廃物を全て出し切るのだ。全て出し切りよろよろとトイレから出た後、自動改札を出た。しばらく歩いていると異変に気がついた。

 ホームに戻っている!

 そう、この駅のトイレは改札の外だったのだ。一所懸命踏ん張っている間にすっかりそのことを忘れていて、ご丁寧にまた改札をくぐり、ホームに戻りかけていた。
 方向音痴な自分が疎ましい。駅務室に人は居ない。この時間帯は無人駅なのだ。わざわざ呼び出しボタンを押して我孫子駅の駅員と遠隔通話をするのも面倒なので改札の脇をしれーっと通り抜けた。
 気を取り直して布佐駅の東口を出て、鮮魚街道の前回の続きの地点まで歩く。雲はどんよりと鉛色に広がり、いつ雨に降られてもおかしくはない。インターネットで調べた降水確率はニ〇%だが、雲を見るとどう安く見積もってもリアルに四〇%はあるだろう。雨宿りもできぬ街道の途中で降られてはたまったもんじゃない。道を急ごう。

 前回のロケハンで渡れなかった関枠橋(せきわくはし)まできた。川は五メートルくらいの川幅で、利根川の恵みを含んだ水がたっぷりと流れている。橋を渡るのだが歩道がなく、私の横をかなりのスピードで車がすり抜けるのでストレスが溜まる。
 橋の上から見下ろして気がついたのだが、川沿いの建物の敷地周辺でオシャレとはほど遠いスタイルの若者たちが、十人ぐらいタムロしている。オートバイが数台止まっているが暴走族ではない。どちらかと言うと真逆でオタクなツーリング仲間という感じだ。こいつらはきっと昔、後ろ髪だけチョロっと伸ばしてやれNSRがどうだとかYZRがどうだとかアルファベット三文字を呪文のように発していたに違いない。こんな何もない田舎にこの集団が異様な光景だったので、気になって後で調べてみると「大盛り」が売りの食堂だった。

 橋を渡りきり、我孫子市から印西市に入る。一本目の横道を右折すると左手に川で寸断された細い鮮魚街道が目の前に現れる。今まで歩いてきた比較的大きな道と並行して、鮮魚街道はひっそりと続いている。この先、幾度となく体験するであろう鮮魚街道の裏街道感には訳がある。
 早い話しが役人や宿場、馬子などによる街道ごとの利権争いだ。江戸までの道のりで既存の木下街道や他の街道と同じルートが使えないため、無理矢理新しい道を作ったことにある。
 その裏街道感が最も溢れる発作(ほっさく)という町を歩く。すーっと続く平坦な一本道、両脇は果てしなく田んぼ。私が初めて歩いた時は、ちょうど稲刈り時期だった。いたる所に黄金色の籾殻の山が積まれ、その殻はアスファルトにまで溢れていた。

 街道に沿うように古くて立派な石垣や門構えの家が並ぶ。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような佇まいだった。ここら辺で収穫された米はどんな名前なのだろうか、ネットで調べたが皆目分からなかった。

 田んぼのあぜ道を歩くとザリガニ釣りをしている家族がいた。そこらへんにある木の棒にタコ紐をくくりつけ、スルメを吊るすという懐かしのストロングスタイルだった。ここにはまだそんな自然が残っている。
 田んぼエリアを抜けて小さな集落のある浦部という村に出た。Y字路があり左側が鮮魚街道なのだが、右は「月影の井」という名所がある。迷わず左の鮮魚街道を選んだが、次回はこの日本三井の一つであるこの月影の井を見ることにしよう。日本三井なんだそりゃ。
 竹林が自然に伸びてアーチ状になったトンネルの急坂を登りきると木下(きおろし)街道に出る。穏やかな鮮魚街道とは違い、メジャーな木下街道は車がびゅんびゅんと猛スピードで通りすぎる。狭い歩道の脇に紅く塗られた庚申塚が、さも落ち着かなそうに並んでいた。カメラのバッテリーも切れたので、木下街道を逸れて駅に向かった。途中でフジのコンパクトカメラをぶら下げた紳士とすれ違った。駅から遠いこんな辺鄙な場所ですれ違うのだから、同じような写真を撮っているのだろう、お互いが何となく会釈した。

 なかなか駅にたどり着けず、もう足が第一カラー竹馬のようになっている。知らない町で近道しようとして、逆にとんでもなく遠回りになることってあるよね。

今がそれ。

 ここはニュータウンと呼ぶだけの何もない町だった。なんならすでにニューですらない。ただのタウン。まったく同じデザインの家が無間地獄のように軒を連ねている。これが人々の理想の町の完成形なのだろうか。ここに私の実の姉夫婦が二〇年以上も暮らしている。会いたくない。会ったら絶対「あんたこんなとこでカメラぶら下げてなにやってんの!」と言われるに決まっている。姉とはそういうもんだ。一刻も早くここを抜け出したくて歩調を早めた。こんな清潔な町より、私は船橋のいかがわしいゴチャゴチャした古くさい町が好きだ。
 なんとか駅前のAEON千葉ニュータウン中央店に着いて茶をしばこうと思ったが、スタバは満卓だった。スマートフォン販売の怪しげな抽選会場で風船を受け取らずに突っ切り、体力・気力的にも珈琲屋を探す余裕すら無いので、AEONを出てさらに駅まで一気に歩いた。
 駅に着くなり改札でいきなりピンポンが鳴り響き、ゲートが閉まる。すっかり忘れていたのだが、布佐駅で改札を通らずすり抜けてきたのだ。駅員に訳を説明して布佐駅での入場記録を解除してもらった。
 新鎌ヶ谷駅で新京成線に乗り換える途中に駅ナカの喫茶店に寄って足を労い、ライカ M9の背面にある頼りないモニターで今日の微かな撮れ高をチェックした後、自作の地図を見ながら、次回の行程を練った。いよいよ国道一六号線越えが待っている。

最も過酷なフォトウォークロードが、手ぐすねを引いて待っていた。

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