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55回目の大晦日。

今日は大晦日。
人生55回目の大晦日です(笑)
満年齢は54歳ですが、0歳で初めての大晦日を迎えてるので
そっか、55回目なんだと今気づきました。

はじめまして、はっちゃんと申します。
東京都在住の会社員です。

大晦日にnoteデビュー(笑)
決してヒマではありません^ ^

2022年は55歳になります。
ごじゅうご・・・
GOGO・・・
ゴロはいいけど
このままでは何もしないで婆さんになっていく。
せっかくこの世に生まれたのだから
何もせず婆さんになるのはイヤだ。

重い腰を上げました。
年末休みに入り、行動を起こしました。
「自分棚卸し」
とっ散らかった我が人生。
ここらでちょっと整理したい。

何者であるかという説明も兼ね
簡単に自分の人生を振り返ってみようと思います。

幼少期〜小学校

1967年の年末、愛知県名古屋市に第一子として誕生。
父は、男子の名前しか用意してなかったらしく
急遽取ってつけたように女子の名前を用意される。

私の後に弟が立て続け二人生まれ
すぐ下の弟は私が1歳半にもなっていなかった頃誕生。
弟は、私の時に用意された名前をつけられ、
身体も弱かったためかなり手がかかったようで、
1歳半にして、私は姉として扱われるようになり・・・。

当時の記憶は全然ないのですが、
親離れが異常に早かった私は、この背景があるのだと勝手に思っています。

また、父はレコード会社へ勤務してたのですが2〜3年ごとに転勤があり、
幼稚園は1回転園(愛知県→大阪)
小学校は3回転校(大阪→愛知→宮城)
新しい環境に比較的強くなったのはこの経験からだと思っています。

この幼少期で今の素地となる私が出来上がっています。
早くに姉になり親に心配かけない「いい子」を演じていた私。
数度の転校で新しい環境にストレスを感じながらも、馴染む努力をしていた私。
当たり前ですが、これがかなりあとで爆発することになります。

小学校卒業時に、父が東京勤務になり神奈川県へ引越。
東京出身の父の転勤生活はここで終了。
私も結婚するまで神奈川県に根付きました。

中学〜短大まで

中学・高校は公立へ通いました。
小学校卒業と同時に引越したので誰も知ってる人がいない中学生活スタート。
とはいえ、3つくらいの小学校から寄せ集まり、11クラスもあったので
みんなも知ってる人、知らない人が半々だった環境だったこともあり
馴染む、っていうのは小学校転校ほど難しくはなかったです。

バスケ部に入り、中2からはレギュラーでした。
同学年20人くらいいた中で選ばれた5人のうちの一人だったので
この経験は、自信になっています。
市でも強い中学だったので、市大会ではいつも優勝か準優勝でした。
進学した高校は新設校だったので、
バスケ部を作り1年生から試合に出ていました。
結局バスケは中高6年間やったことになりますが、
高校は、ほぼお遊びで・・・。
中学の部活は、先生も先輩も厳しく上下関係を学びつつ真面目に過ごしたけど
高校は先輩もいないし、友達と遊ぶのも楽しいし、
学校サボって松田聖子の結婚式を見に行ったりな感じでした。
おまけで部活やってる感じで。

大学受験は、なんとなく4年制がいいなと思ってはいました。
でも時代は女子は短大、4大は就職大変だよと言われていた80年代後半。
高校はゆるく楽しく過ごしたので、受験勉強はそこまでやっていなくて
当然4大は全落ち、一番最初に受かっていた短大へ進みました。

進んだ短大は「THE お嬢様短大」で、
全くもって馴染めませんでした(笑)
そもそも、当時は父が脱サラし、おまけにトラブルにも巻き込まれていて
家もお金に困っていた頃。
そんな中、授業料が高い短大へ行かせてくれたのに、
何にも得なかったのは、今思えば申し訳ないと思っています。

就職率もいい、CanCamモデルもいっぱいいる派手目短大でしたが
私はまだ働きたくなかったので、進学を希望。
キャビンアテンダントとか外資系とか一部上場企業とか
同級生がバンバン内定をもらう中、
マクドナルドのバイトに明け暮れ、勉強もほとんどしなかったので
4大編入試験はまた全落ち。
結果、卒業間際に急遽就職に切り替え、
ちょうど卒業できなかったという同級生の代わりに
某商社系のグループ会社へ滑り込みました。

就職〜結婚

就職は運良く決まリ、短大卒業後、何事もなかったように就職。
それ以外でも「運」に恵まれていることは、ここまでに
何度も実感してきていました。
時はバブル全盛。時も味方していたんですよね。
進学から就職に急に切り替わって、私の切り替えも笑っちゃうくらい見事でした。

「置かれた環境に、結果流される」
母に私はこのように評されていました。
考えるより、流れに身を任せるタイプらしく、それで失敗も多いのですが
なんとなく流れに乗るっていうのが昔から本能的にできるのを自覚していました。

それのいい例が結婚。
就職当時、バイト先で知り合った2歳上の人と付き合っていました。
私の短大卒業と同年に大学を卒業して、故郷の銀行へ就職するためUターンし
遠距離恋愛。
3年くらい数ヶ月に1回会うってことを続けていました。
3年目に結婚に向け、お互いの両親に挨拶しました。
そんな時に、会社の後輩である「のちの夫」と出かけるようになりました。
結婚予定の彼氏がいる私に対して全然関係なく遊びに行こうという
まぁまぁ図々しい感じで。
また、実家からも早く出たい、自由になりたいとこの頃強く思うようになっていました。結婚=自由、みたいな。
本当は違うのに、その頃まだ24歳、青かったですね。

この後流れに乗って、遠恋の彼氏を振り、のちの夫を選びました。
地方へ行くことに不安を感じたのと、東京に残れるという打算的な考えも少し、
そして、とにかく自立したいと。
ま、この選択は失敗だとわかるのはだいぶ経ってからですが。

育児と死別

結婚後何年か経って、30を過ぎてから娘を出産しました。
親になるってこと=自分の時間がなくなること
これは相当のストレスでした。
親になるってこと=最初の数ヶ月はほぼ寝られない
これは、かなりの辛さでした。

そして、親になるってこと=自分の思いどおりにならない
これは想像以上でした。

当時、保険会社の正社員だった私。
会社を辞める選択は全くなかったので、
産休のみ取得して、復帰したけど
娘は血液疾患に罹り、長期闘病の見込みになり
先の見通しが立たないため、退職しました。
娘が生後8ヶ月の頃でした。

娘は血液の癌だったので、その後臍帯血移植を受け、
退院できたのは2歳半になるくらい。
生後8ヶ月から2歳半までの入院生活により
通常より発育も遅延していました。
当時は、娘に対して闘病させてしまった負い目もあり
少しずつ距離ができはじめた夫への諦めだったり
でも状況をどうすることもできず
娘が小学校高学年くらいまではずっと苦しい時期でした。

娘が小5の時、中学受験をすることを決めました。
勉強があまり得意ではなかったので、公立ではこの先厳しい気がして
受験することにしたのですが
これを機に思い切って環境も変えることにしました。
当時の場所では私立の中学校の選択肢が少なかったためです。
都内で学校の選択肢が多い地域を探し、
7年住んだ注文住宅を売却して選んだ地域の中古住宅を購入。
小6で転校した娘は、転居後の家からわりと近い
私立の小規模な中高一貫校へ通うことが決まりました。

この選択は間違ってはいなかったようで
小規模なだけに、高校の内部進学もギリギリだった娘も
ちゃんと面倒を見てもらい、
大学もAO入試の恩恵を得、大学へ進学しました。

娘が高校生の頃、夫とは別居しました。
結婚生活は娘がわりと小さい時から破綻していて、
夫の裏の顔、夫の本心、裏切り、婚家のゴタゴタなど
娘への影響を考えたら家を出る選択しかありませんでした。
その後、夫は亡くなり、戸籍上まだ妻だったので、
様々な手続き、相続ならぬ争続とか…が完了するまで3年くらいかかりました。

半生を3000文字くらいでまとめてみましたが(笑)
今は、10年前から勤めている会社の正社員として働き、
夫が死後、住んでいた家と土地を売却して住み替えたマンションに
娘と犬たちと暮らしています。

娘は22歳になり、もう手はかかりません。
小さい頃の病気は完治し問題なく元気で、2022年春から社会人です。
私は、今の仕事で強みを活かせた業務に携われています。
今は自分がしたいことを自由にできるようになりました。

でも、育児をしていた20年以上、自分は後回しになっていて
自分らしさが何かが全くわからなくなってしまいました。
今の仕事は、出産前からの業界で、一定の経験があり
経験を活かした業務を行え、成果も出せているのですが
何かが違う。

大きな会社の歯車としてですが
強みを発揮できる部署で働けて恵まれてはいるものの
自分らしさが発揮できているとは実感できていないのです。

自分らしさとは?

3000文字で半生振り返ってみたくらいで、
まだ自分らしさが何かは具体的に見えていないのですが
でも、浮かび上がったのは、おそらく自分は
・「自由」を求めているということ
・「環境」を変えるのはやぶさかではないということ

自分に正直に、2022年は行動に移して
何もないまま婆さんになるのは阻止していこうと思います!


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