試み

 音楽は芸術であり、芸術はその思想や主張を言語ではない別の手段を用いて"相手"に伝えるもの、世間に示すものであるという考えがあります。これは他の誰かが言っていたものの引用ではなく、私個人の考えです。

 映画を観て、音楽を聴いて、絵画を見て、あれこれと語ることについて、「無粋なことだ」という意見もあるでしょう。すなわち、「考えるな、感じろ。」”Don't Think, Just Feel."というスタンスです。こと芸術についてはこのように言われることが決して珍しくはありません。それは、ある作品、アートを体験したその感動を言語化してしまうことで、何かその純度、鮮度とも言えるものが失われ、劣化していくように思われるからではないでしょうか。これは受け手側の話だけではなく、そもそもの思想や主張の表明をするにあたって、なぜ言語ではなく、芸術という形、形式を採ったのかという理由にもなりえると考えられます。

 芸術のみならず、「語る」ことが難しいとされ、しばしば忌避される事柄は多くあります。それは「心」「善悪」「存在」「宗教」「生と死」などなど、いわゆる俗に「哲学的だ」と言われるようなテーマです。

 私が大学にて学んだ「哲学」は、すなわち定まった一つの答えがないものに対する思考の試みであり、解明の試みです。言語ではこれと明確に定義しきれない、辞書的な定義では100%の納得がいかない曖昧で漠然とした概念について、「それはなぜそうであるのか」を、なるべく純度を保ったまま言語にて解明し組み立てる試みです。走光性という性質によって虫が光源に向かうように、知欲によって哲学者は考え続けるのです。

 自分が幼少のころから持っていた知欲に加え、「ドラムを教える」ということを始めて、次第に大きくなってきた思いがあります。それは、自分の経験則に倣って教えている事柄が、そもそもなぜそうであるのかということについて、真にきめ細かく端々にわたるまでの熟知が必要であるという使命感と責任感です。

 「感動」は私秘的であり刹那的なものです。我々がミュージシャンとして感動を聴き手にもたらすためには、その感動の仕組みを(感覚によってにせよ)理解しなければなりません。それだけならまだしも、私が生徒をそのようなミュージシャンに成れるように育成するためには、最も効率的な意思伝達手段、すなわち言語を用いた理解が必要になります。アインシュタインが「あなたの祖母に説明できない限り、本当に理解したとは言えない」と言うように、また在学中に教授が「100を述べるために1000理解せよ」と言ったように、自身の思考の緻密な整理を言語によって行う必要があると感じたのです。

 ぼんやりと、なにもかもを中途半端にこなしながら生きる中で、自分の心を強く惹きつけた「ドラム」と「哲学」の両方を掛け合わせた生涯研究ができないか。言葉にできない音楽体験を通して得られる有意義さと、言葉にして整理をすることで得られる有意義さ。この二つを、自分の音楽人生において対を為す二本の柱とする。それらを、公(おおやけ)という流れに浸し、晒すことで研ぎ澄ます。常に自省し、疑いの目を向けることを忘れず、賛同に安堵し胡坐をかかず、異論を甘んじて受け入れる。

 この試みが私のドラム哲学です。

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