生命のシンバル

「全ての物事は科学で解明できる」

ある意味で正しいし、ある意味で正しくないと思う。
厳密に言えば、この世には「科学で簡単に解明できるもの」「科学で解明できなくはないが、それには途方もない時間がかかるもの」があるのだと思う。

たとえば「指揮者によってオーケストラの音が変わる」という。大学の時の恋人が吹奏楽サークルに所属しており、その定期演奏会を観に行ったときのこと。
本編が終わり、アンコールが始まる。そこで、指揮者が替わったのだ。
後から聞けば、出てきた男性はサークルのOBであったらしい。

彼がタクトを振るい始めたと同時、鳴り出す全ての音が、まるで本編と違って聴こえるのだ。いや、違って「聴こえた」どころではない。確実に、違う音が鳴っていたのだ。それはもう、楽隊のやる気の有る無しという話を通り越して、楽器を持つ全員がごっそり入れ替わったような、それほどの違いであり、衝撃であった。

音が違って聴こえる、というその現象自体は、実際にその音量や音圧に変化が生じた、という原因でもって説明がつく。しかし、では、なぜその音量や音圧に変化が生じたのか、というところに目を向けると、これは途端に解明が難しくなってくる。指揮者ではなく、あくまで奏者が音を出しているのであり、替わったのは指揮者であって、奏者ではないからだ。理屈で解明することが非常に難しく、それゆえ深く感動した記憶がある。

このような現象すらも、いつかは科学で解明されてしまうのだろう(もしかするとすでに解明されていて、自分がそれを知らないだけなのかもしれない)。これこれこのような理由で、これがこのように作用した結果である、という風に、万人に理解されやすい形へと解きほぐされてしまうのだ、いつかは。

しかし、それを今解明しようとすると、複雑で難しいのだ。だから、非科学的ななにか、に、その原因であろうものを押し込める。研究という営みは、未知の土の中を掘り進めていく作業に似ている。そして理解する、解明するとはどういうことかというと、その掘削の手を止めることである。理解をするということは、それ以上理解をしないということに等しい。結論付けるということは、その事柄についての思考を止めるということなのだ。全ての結論は、真理にたどり着かんとする道すがらでの、かりそめの終着点に過ぎない。

ある意味で我々は、真理というものの尊大さ、そして到底そこに至らない我々の思考との雲泥の差、天と地ほどの差に畏怖の念を抱き、絶望し、そして時にそれを感動と呼ぶ。理解不能な恐ろしさに、ある種の快感を得るようにできているのかもしれない。

1枚のシンバルがあった。

およそ50年前に打ち出されたそのシンバルの、「リメイク」を依頼することにした。

Remakeというと例えばヒビの修繕のためにエッジを加工したり、サイズを縮小させたりするのが思い浮かぶから、Rebornという言葉の方が相応しいのかもしれない。

関東に拠点を置くシンバル工房でありブランド「ARTCYMBAL」を掲げる山本学さん。歳が近いが、シンバルに対する知識、造詣、そして何より情熱、愛の深さが凄まじく、SNSを通じて何かの縁で知り合うようになった。
彼の「作品」は、シンバルとは楽器としての存在にとどまらず、造形的な美しさを持つ芸術作品であるということを再認識させられるほどの出来のものばかりであり、西アジアの地で生まれた青銅の塊が価値を、命を吹き込まれる過程―それがすべて凝縮されているような、とてつもない深みを感じさせるものばかりであった。

ある時、彼がシンバルの制作のみならず、既製品の調律を受付しているという話を聞いた。

シンバルに「調律」という概念があるということすら勉強不足でその時初めて知ったようなものであったが、非常に興味を持った。

使わなくなったシンバルがあった。厳密には父親の所有であるが、音が硬く扱いにくいものであった。

自分がドラムを始めたのは父親の影響である。自分のドラムの原点にあるものを、ドラムが結んだ縁に任せて変容させる、ということに、とても心を惹かれた。

そして梅雨の時期であったか、山本さんに連絡を取ることにした。依頼は快く引き受けて頂けた。
「例えば音の要望というのは、みなさんどのような感じで注文なされているのでしょうか?」と聞くと、
「実際はどこでも使えて、とにかく良い音にしてほしいという要望が多い」とのことだった。

ここで自分の心に火が付いたような気がした。

要約すると、
・どこでも使える音というのは(自分にとっては)面白くない
・性格が暗いので、暗い、柔らかい、温かい、ベルとボウがしっかりと分離されているような音を好む
・サステインがガシャーンと鳴るような所謂ジャズシンバルのようなものは好まない
・これらを踏まえたうえで、少しだけイジワルをしてほしい
・なぜなら自分の好みのものだけを身に纏っていても新しいものは生まれないからだ
・単純な発注と受注ではなくお互いの生業のぶつかり合いの結果のようなものが欲しい

というような内容の文章を、参考音源のデータも添えて、一切の推敲や添削をせずに衝動のままに送った。

その文字数、
1703字。

いま、自分で自分に引いている。

山本さんにはこの文章をまともに読んでいただき、こんないかれたクライアントと真正面から向き合っていただいたというだけで感謝である。

こんな愚かな行いにも、一応しっかりとした考えは根底にある。

それは、一流を相手に、素人が勝手にその内容を簡略化したり端折ったりして伝えるのは、かえって失礼にあたるという考えだ。
持ちうる判断材料は全て相手に開示し、その取捨選択の基準を一任する。
一流は、その中の何が必要で、何が必要でないか、その判断がしっかりとできるものなのだ。
だから、素人判断で「この情報は要らないだろう」と切り捨てをすることは、双方にとって良くないことであると考えている。


にしても自分で自分に引いている。


さて、そのようなやりとりを経て、シンバルを郵送し、しばらく経ったころに、新たな姿となったシンバルの写真とともに作業終了の報せが届いた。
「ようやく納得の音に落ち着きました!」
ああ、しっかりと妥協をせず、真正面から自分のシンバルと向き合ってくれていたのだなと感服するとともに、その新たな姿に感動すら覚えるほどであった。
自分に子供はいないが、もし我が子が生まれたとしたら、(全く同じではないにしろ)こんな情感を覚えるのかもしれないと思った。

データという形を通じて知る姿、形、それに対面できる日を楽しみにしている中、ついに自宅にそれが届いたのは8月末のことであった。

バンドの海外ツアーがひと段落し、ある日の夜ふと、その姿を見たくなった。

誰もいない部屋で、ゆっくりと、段ボールを空け、「それ」を包む梱包材を丁寧にはがし、「それ」の地肌があらわになった瞬間。

体の中を何かが吹き抜けたのである。どす黒い煙のようなものが。これはなんだ。

鈍く輝くその地肌、職人が幾度も槌を振り下ろし溝を刻んだその「傷だらけ」の地肌から、自分の眼孔に流れ込んでくる、鬼気、覇気、執念とも言えるだろうか。

全身の毛が逆立ち、しばらく呆然としたまま、その場に座り込んでしまっていた。

自分は、とんでもない人に、とんでもない事を依頼したのだと、遅れながら、そこでようやく理解したのである。

「届いたシンバルを開封した」。

ただそれだけのことなのだ。

ただそれだけなのに、ただそれだけではないのだ。


せわしない日々が続き、いざその音を自分の手で鳴らすことができるとなったのは今月中旬のこと。

NESTのスタジオにドラムを組み、スタンドを置き、静かにシンバルを乗せ、それを鳴らすのにも非常に勇気が要った。
楽器を鳴らす勇気が無い、というようなことは、28年間生きてきて初めてのことだった。

どのように鳴らすべきかが定まらないのだ。


思い切って本能のままに、このシンバルと対峙することにした。そして思い切ってスティックを叩きつけると、愛くるしくも力強く撓み、揺れ、美しい轟音を響かせるのである。思わず叫ばずにはいられなかった。

そしてその余韻は、上記の要約の、そのすべてが叶えられていたということを自分に知らしめた。
これには本当に舌を巻いた。驚くべきことであった。

仕事を通り越した、業の為せる結果である。
そこに見る、様々な念。禍々しさすら感じてしまいそうになる念。

その念が染み込んだ「生命のシンバル」が、科学を超越する金属の塊が、新たに自分の表現方法のひとつとして加わった令和の秋。
山本学氏に心からのリスペクトと感謝を送る。

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