見出し画像

汚れた雨

ぽつり、と雨粒が滴った。リポレッドの前でそれは街道へ続く道へと落ち、敷石の隙間を赤く汚して行く。
 雨粒が降る間隔は瞬きを一度するごとに狭まり、視界が透明を帯びた赤へと染まった。
 剥き出しの頭部に濡れた感触が広がって、リポレッドは頭を振る。癖の強い短髪が揺れ、先端から細かな水滴が飛んだ。右手の槍を握り直して、二歩ばかり後退る。閉ざした町の門扉に背が当たり、上にせり出した庇がほんの僅かに雨を防いでくれた。
 それでも、ろくな防具を着けていない上肢は濡れたシャツが張り付き、押し込んだズボンの裾を伝ってブーツの中にまで雨が入り込む。
 ちらと左隣へ目をやると、エゴマルが一つに結んだ髪束を絞って水気を切ろうとしていた。衣服の状態は、リポレッドと大差無い。
 視線に気付いたのか、エゴマルと目線が合った。降りしきる雨とは正反対に見える碧眼が、笑みの形を取る。何処か、嘲りを含んだ笑みだった。
「また誰かが何かやらかしたみたいだな」
 馬鹿だよなぁ、とエゴマルは絞った髪束を体の後ろへと放る。
「この町じゃ、何かやらかせば、すぐにこうやってばれちまうのに」
 碧眼が空を見た。雨脚は強まる事も無ければ、弱まる事も無い。顔が濡れる事を嫌ってか、エゴマルはすぐに視線を正面へ戻した。
 この町は、水神を祀る神殿を擁している。神殿の祭壇には水が張られており、この町全ての水源となっているのだ。
 水神の加護のお陰か、町人達がどれほど炊事や洗濯に水を使おうと、井戸が涸れる事は無い。祭壇の水が目減りした事すら無いのだという。
 水が涸れない他にも、この町はもう一つ特徴がある。
 住人の誰かが罪を犯すと、今リポレッドを打っているような、赤い雨が降るのだ。どんな小さな罪でも、それは汚れた雨に暴かれてしまう。
 水源である神殿の水に誰もが触れているから、その水を通して祭壇の水が雨を降らせるのだとか。水神は全ての水を通じて、常に人々の行為を見ているのだとか。憶測は色々とある。だが、真相は誰にも分かっていないのが現状だ。
 とにかく、この町で誰かが罪を犯せば、赤く汚れた雨が降る。それだけ分かっていれば十分だとリポレッドは思っていた。
「なかなか止まないなぁ……」
 エゴマルが呟く。町の中のざわめきが、門扉を通り抜けてリポレッドの耳を打った。
「まあ、罪人が捕まれば止むだろ」
「そうだな」
 リポレッドが言い、エゴマルが頷く。ぱらぱらと降る雨は、まだ止みそうになかった。

 リポレッドは十五の時から一人で暮らしている。それから三年。家族は存命だが、ろくに顔を会わせた事は無かった。
 門番の役を交代して自宅へ戻った時、赤い雨は止んでいた。外にはまだ、辛うじて日の名残がある。濡れた衣服を着替えると、リポレッドは共同の洗濯場へ向かった。
 敷石の上へ伏せられた木桶を一つ拝借し、井戸水を汲んで衣服を押し洗いする。雨水の赤が、木桶の中で緩やかに踊り始めた。
 息を呑む音がして、ちらと目線をそちらへやる。
 リポレッドの両親と同じ年頃の女が二人、眉を吊り上げてこちらを見ていた。リポレッドの視線に気付くや、さっと目を逸らす。
「雨の原因、あの子じゃなかったの……」
「どうせ時間の問題よ」
 何も聞こえないふりをして衣服を絞り、水を切る。うっすらと赤く染まった水が、敷石の上を流れて行った。

 翌日は快晴だった。足元の敷石も、嘘のように乾いている。
 リポレッドは門番用の装備を整えて、町の門へと向かう。エゴマルは既に配置に着いており、こちらに気付くと右手の槍を軽く持ち上げた。
 町と外の境界を踏み越えて門を閉じ、エゴマルとは反対側の道の端へ位置を取る。
「なあ、昨日の雨って、何が原因だったんだ?」
 街道へ続く道を見る目が少し疲れを訴え始めた頃、不意にエゴマルが口を開いた。同じく目が疲労しているのか、碧眼は僅かに伏せられている。
「俺が知るわけないだろ」
「そんなわけないだろう。だってお前――」
 神官の子じゃないか。
 エゴマルの声が針のように肌を刺す。指の関節が痛んで、槍を握る手に力が入っている事に気付いた。
「まさか、まだ家族とうまく行ってないのか?」
「なんでうまく行くと思うんだよ」
 リポレッドの家は、神殿に仕える神官の家系だ。だが、神官として神殿に上がるためには、祭壇に張られた水にそれを認められなければならない。
 リポレッドは十五の時に、祭壇の水へ触れた。そして、水は荒ぶり、リポレッドを拒絶したのだ。
 それからリポレッドは門番の職を得て、神殿に仕える家族とは別に暮らしている。
「水神様に拒絶された、出来損ないの子だぞ? 神官様達がまともに俺を扱うと思うか?」
「それにしたってさ、もう三年だぜ? 多少は歩み寄ったっていいだろう」
 ちり、と指先が熱くなる感覚が芽生えた。抑えようとしても熱はじりじりと高まり、吐く息すらその温度を上げているように思える。
「そりゃ、親御さんはそう簡単にお前を認めないだろうけどさ。そこはお前が大人になるべきじゃないか?」
 出来損ない。
 家の恥。
 もう我が子とは思わない。
 二度とその顔を見せるな。
 過去から浮かび上がって来た言葉が、熱の高まりに拍車をかける。
「……お前に」
 何が分かるんだよ。
 そう叫んだと思った時には、右手に鈍い感触が伝わっていた。瞬き一度の後、どっと重みのあるものが敷石を叩く音がする。
 緩やかに、視線を下げる。エゴマルがこちらに頭を向ける格好で、敷石の上に伏臥していた。首の辺りから、暗く赤い液体がじわじわと広がっている。
 リポレッドはそっと、自分の手を見た。下がった槍の穂先から、エゴマルの体より広がるものと同じ液体が滴っている。
 おい、と呼び掛けても、エゴマルは返事をしない。近くに転がった槍へ、手を伸ばそうともしない。
 リポレッドは槍を敷石の上に置いて、エゴマルの傍らへ膝をついた。そっと、耳を口元に近付ける。呼吸の音は聞こえて来なかった。
 殺してしまった。
 その実感がじわりと内を満たすと共に、手が震え出す。長い呼吸を幾度か繰り返して、速まる鼓動をどうにか鎮めようとした。
 エゴマルの死体を、このままにはしておけない。手の震えを抑え付け、立ち上がって亡骸の両足を持つ。力の抜けた体は重かったが、道の脇に生えている低木の中へどうにか隠す事が出来た。エゴマルの槍も、同じ場所に投げ込む。
 門の前へ戻ると、エゴマルを引きずった跡が赤い筋となって残っていた。この場所で何度も浴びた、赤く汚れた雨を思い出す。
 ぞわ、と背筋に怖気が走ったのは、その直後だった。
 この町で罪を犯した者が現れれば、濁った雨が降る。実際に罪を犯してから、どれだけの時間を置いて雨が降るのかは分からない。だが、エゴマルを殺してしまった事で、赤い雨が降るのは確実だ。
 どうすれば。
 瞬きを五度ばかりする間、リポレッドは考えを巡らせた。そうして、一つの閃きを得る。
 神殿の水を、汚してしまえば。
 リポレッドは息を呑んで門を開き、町の中へと体を滑り込ませた。

 リポレッドが町と外との境に戻った時、ちょうど赤く汚れた雨が降り始めた。雨が敷石や屋根を叩く音はしかし、神殿から溢れたどよめきによって掻き消されてしまう。
「神殿の水が……!」
「一体、誰がこんなことを……」
 人々のさざめきを耳にして、ふっと短く息を吐く。
 神殿に忍び込んだ後、リポレッドは血で汚れた槍を、神殿の祭壇に張られた水で洗った。そして、血の汚れは墨流しのように、不安定にゆらゆらと水の中へ広がって行ったのだ。
 この雨の事も、神殿から漏れ聞こえる声を聞く限り、祭壇の水が汚れた事が原因だと思っている者が大半のようだった。
 騒いでいた鼓動が、少しずつ落ち着きを取り戻して行く。不意に背後から門扉が開かれても、リポレッドは慌てる事無くそちらへ目を向けられた。
「お前一人か? エゴマルはどうした?」
「俺、この雨に驚いて町の中に入ってしまって……戻って来た時には、もういませんでした」
 エゴマルを引きずった跡は、既に雨で洗い流されている。門扉を開いた男は特に訝る様子も無く、また町の中へと戻って行った。
 エゴマルの死体が見付かったのは、リポレッドが門番の仕事を終えて自宅に帰った後だった。

 エゴマルの死は、それなりの騒ぎになった。しかし、家族以外は、神殿の水が穢された事の方を重視している。本格的に調査が始まる頃には、リポレッドが残した痕跡は土や砂埃に紛れてしまっているだろう。
 安堵と共に、今日も門扉の前へ立つ。エゴマルの後任が見付かるまでは、リポレッドが一人で門番を務める事になっていた。
 とん、と槍の柄で敷石を叩く。
 ぽつりと雨が降り始めたのは、その時だった。
 また誰かが何かの罪を犯したのか。そう他人事のように考える。だが、その思考はすぐさま中断された。
 雨脚が、瞬き一度の後に、土砂降りと言えるほどに強くなったのだ。雨の色も、これまでとは違い、流したての鮮血のように紅い。
「なに……」
 思わず開いた口に、雨が注ぎ込まれる。吐き出そうとしても雨は吸い込まれるように口内へ入り、ごぼごぼと湿った音を鳴らした。
 ――馬鹿だよなぁ。
 エゴマルの声が脳裏に蘇る。
 ――この町じゃ、何かやらかせば、すぐにこうやってばれちまうのに。
 嗚呼、と雨に溺れながらリポレッドは思う。
 雨の裁きから逃れる術は、最初から無かったのだと。