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【考察】なぜ私たちの感情には「怒り」という種類があるのか

私たちはなぜ、怒りという感情を持つのでしょうか。
怒りという感情を持つことで、何か人類に良いことがあるのでしょうか。

舌打ちの多い生活を送ってきました。私は、今まで「怒り」という燃料を使い、高速道路という人生をぶっ飛ばしてきました。
しかし、車にも寿命があります。走行距離も10万キロ越え、燃費も悪くなってきたので買い替えをすることにしました。買い替えたのは良いのですが、最近の車は「怒り」というガソリンは必要としていなくてですね。今まで使っていた燃料は時代遅れだということを最近しりました。対応している燃料は「悟り」です。


本来、怒りという感情は人が生きるためにあるのだろうと考えております。
人類がまだ狩りをしていたころ、獲物を取り損ねてしまったとします。
そこで「まあいっか」と思ってしまえば、ごはんが食べられず、人類は死んでしまうわけです。
でも、「ちきしょー、なんであの動物が取れないんだ~」という怒りの感情があることで人を動かし、獲物をしとめさせる。そういう風に人類は生きてきてしまったため、怒りという感情が狩りをしなくてもよい現代社会の人間にも残ってしまっていると考えております。


しかし、私たちは狩りをしなくても生きていけるし、そこらじゅう氷に包まれるような厳しい気候でもないし、怒りという感情をわざわざ選択するほど、生命の危機は感じなくなっている気がします。

怒り以外にも自分を動かす感情はいくらでもあります。
原始時代にインストールされた「怒り」という感情はさっさとごみ箱にいれて削除したいですね。

新しい機能をつかえるように生きていきましょう。

「怒り」という感情を「出さなくてよい状況で」出している人を見かけたら、「発見!こんなところに原始人」と思うようにしましょう。勿論、時には怒りという感情も必要です。


以上

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