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【自分語り】 2001-04 (2100字)

 取り立てて自分が不幸だと述べることもない。特筆すべき苦労をしたわけでもないし、環境との折り合いが悪かったわけでも全然ない。
 これは決して自慢でもなく。

 例えば、近くを生きる人に望まぬことを強いられてきたとか、誰かの都合を優先して自分の道を諦めたとか。いや、例えにもなってないね。だけど、具体例を出すのは憚られるほど苛烈な現実を過ごしている方は今日もいるだろう。
 
 貧弱な想像の中で、今も苦しみ痛み生きる後ろ姿を、目の届かぬ場所で愚直に描きたいと思ったりもする。それこそが物語だと声もする。

 どこかで僕が描かれている。
 あるいは君のたもとで。

 眠らない一人で横たわるベッドの上とか、望み通りのタイミングには来ない列車を待つあてどもない時間とか、届かない背中を眺めるその背中を中毒のように目で追う視線等々、
 およそ叶わない夢、倦怠と絶望、青春の綻び、つまり僕自身の人生が決して体験しない、これからも遭遇しないだろう瞬間を再現できたらなと、それも文章に向かうモチベーションになってはいるんだ。

 長い長い日々を、または、あの先の破滅や希望を、適切なサイズとエモーションとして小説に仕立てられたらと画策している。

 きっとそれは「再現にすらも」ならないのかもしれない。いわば見当違いの、中年時代からの捏造による結果だ。

 で、ちょっと自分語りしたいわけ。
 ある程度、これからの孤独の期間で、長い小説を書き進める計画の前に、今まで脳内で飽くことなく語った自分をここに書こうかと思う。いわば一筆書きのスケッチのように。
 なぜって、今まで僕が心に留めてきた事柄を君が大事にしてくれそうな気がするから。そう、こう思えるだけでいい。

 前置きが長くなる。

 やはり鬱状態になったというのは、過去における人生の大きな要素ではある。
 実際、お医者さんに診察して貰うまでに4年あまりの月日があった。中学で体調を崩し、半年で高校に行かなくなり、雪崩れ的に退学し、結局自室にひきこもり、18歳までのその時間が一番きつかった。

 鬱で落ち込む期間、楽しくもない、苦痛だし、自分が高校を中退してひきこもって誰の目も避けて、こんな生活をすることへの羞恥、後悔、逃げ出したい気持ち(これ以上いったいどこへ?)。社会から他者から、世界から脱落し、溢れ落ちていく!
 死ぬ前に死ぬことって可能なんだ。(どこかの笑い声)

 同級生は皆、文字通り日の当たる道を歩く。夏の陽光、テレビからは甲子園。外から聞こえる嬌声、笑い声。(青春)。あの先の僕は想定されていない。響く声の発露、眩しい姿。
 こちら側の憂鬱、恥辱、壁の中。

 隔てた社会に、だが聞こえる距離にいる。噎せる腐った匂いと、布団の嫌な温かさ。

 この窓を隔てた自分の部屋にいる自分。必然の如く、ここに存在がなければならないこと。誰が決めた?返答、誰も決めていない。
 端的に言うと絶望はいつも胸に。冗長に述べるなら今も続く歌がある、頼るべきメロディーとして。

 これが生きること。誰も教えてはくれなかった過失の結果、埋め合わせが彩る日々。

 未来予想はとうに崩れたが、まだそれを信じられずにいるかつての日々があった。張りぼてのカレンダーは進まない。捲られた今月はいつの時代でも良かった。
 育った街の同世代より学業面で先んじたつもりが、最後尾に転げ落ちた自覚。当時、要は価値の一つも自分に認められなかった(今はそれを錯覚だと指摘も出来るが)。

 誰の期待ももう受けない。一身の光は最早どこにもない。ステージはない。例えば親の、教師の、未来の大切な人の、あの幻の慈悲と尊重の視線、溢れる筈の思いさえ、どこかに失ってしまった?

 この先、何も生まない荒野の只中で過ごさなければいけない。一度、天井を見た。暗闇は絶対の自然だろう。だが、心象風景はいつまでも眼前に映る。誰の声も届かない、ここに世界観はない。

 光と影。ただ一つ伝える。2023は自由だ。当時の心境を今は述べられるが、全て夢のよう。行き場のない思いはどこにも行かず、しかし、現実に足の向かう先は逃げはしない。


 高校を辞めた後、10代後半の僕にとっての居場所が辛うじてあった。図書館だ。本を借りて読んで返した。日々を往復する。不自然なところはない。終わらない営為。
 しかし、終わりも見えない。

 自分自身を教育するという大それた目的を立てた。まるで一里塚のように。学校教育では得られない知識を取り込み、自分の言葉で社会の物事を外側から語ってやる。

 逃避と、そこで思考し語られる言葉は個性の生き方になるだろうか?
 今も分からない。当時、理想を追求する意志が、ただ小説の文字を後追いする時間になるまでに多くは必要なかった。

 村上龍に出会った、本棚の村上春樹を隈なく読んだ。東京の人を辿った。
 芥川賞は町田康や吉田修一や長嶋有を選出した。夏目漱石を、安部公房を読んでみた。
 そして、失われた時を求めて。変身、罪と罰。読了した本もあれば、当然ながら挫折もした。

 だが、誰の要請も、教育の意図もなしにその季節、人の物語を追っていった。あくまで自分の物語は頓挫したままで。あるいは、その一過性のディテールに素直に目を向けられないままに。

 それで良かった。豊かな時代だ。
 何一つ責任を追わずに得た先の自由だった。

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