【自分語り】 2023.4(1000字)
列車で帰る時、日が長くなったと窓を見る。
春の訪れより、夏の予感を早くも楽しんでいた。テレビで野球を流すだろう。それまでには帰るから、しがない生活だ。
つとめを終えて巣に戻る気持ちは軽やかで、微かな疲労が心地よい。初めてのことだ。
ドアを閉め、開ける。再び、開けて、閉める。窓を開け放つ。空気を部屋に呼び入れる。椅子に座る。「誰か」を与えられた居場所。
僕を待つ人はいない、僕が待つ人も。ここでは温かな呼吸の生命は自分一つだった。
そこで何をしてきたかは重要ではないのかもしれないと、深い充足感と共に考えたりもする。どんな仕事で糧を得たか、何を作り、対価としてどれだけの金銭を受けとるか。それは人の営みとしては大切で、その違いこそが人々の個性や人生を外見上、分かりやすく縁取るのかもしれない。
ただし、僕自身が持つ物、与えることは微々たるものだ。訪れた諦めと目覚めに気づく。
今(自分にとって)重要さは「どこかへ行って、帰ってくること」で、生きると、意識と体に、未だ見ぬ時間が通っていく。
通過する景色と、現れは消える思いを、見るでもなく眺めている。色づいた緑が遠くにあった。
流れる世界。過去の色合いは当然ながら褪せている。これが自然だと嬉しく感じるようになった。
つまらない大人になれた。
自宅に戻った頃には一つのページを捲った気にもなるだろう。どれもが代わり映えしない描写、しかし、その中には第三者に描けない内面の光と陰影が宿っている。形にする前はコントラストを既に分かる。特段、確かに。
人によっては絶望かもしれない。誰とも共有しない岸辺。必然に消える砂の足跡。見過ごされたさざ波は、言葉にすると消えてしまう。
あるいはどうしたって、何かを発すると凡庸さが上書きされる。
ありきたりが運命?波間に泳ぎ、水平線に佇む?フィーリングは言葉に出来ない?
果たして、その光の反射を、水の輝きを、終わらぬ嬌声を描くほどの創造性と普遍性がないと、全てを諦めるか。
今は違う。錯覚でもいい。
「これは僕の物語だ、何物にも代えられない手触りだ、響きだ、色がある」との声が、木霊する。やがて世界はどこへ向かう?
自分しか聞けない歌だろうが、気にするか。
相変わらず上手く世界を語れはしない。誰の思惑も意図も掴めない。現実社会でも、(そんなものがあれば)非現実非社会でも。我は物語を編めるだろうか。
今も拘る「喪失感」など最早、流行りもしない。
春の日々、散り行く花。
誰かが始めたそこに、もう忘れられて存在しない、このスタートラインの上に立つ。
あたかも何か特別のように、奇跡のように、僕は、やっと地表に顔を出したわけだ。
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