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『すべて真夜中の恋人たち』(川上未映子/講談社文庫)

すき、という言葉を並べてみる。恋だとか愛だとかそういう名前を当てはめてしまうと、どこか違う気がする。

入江冬子は、フリーの校閲者の三十代の女性だ。大学を卒業後に小さな出版社で校閲の仕事に就いていたが、人間関係が理由で息苦しい毎日を送っていた。そんなときにフリーの仕事を紹介され、それをきっかけに会社を辞めフリーの校閲者となった。

現在は大手出版社の校閲局に勤める石川聖から仕事を回してもらい、ほぼ誰とも口をきかなくても、一日が終わってしまうような孤独な生活を送っている。

友人と呼べるような存在は聖のみで、それも聖から一方的に呼び出されては付き合わされるような関係だ。聖は整った容姿に頭の回転が早い仕事のできる女性で、冬子とは正反対のタイプなのだが、仕事以外でも何かと冬子を気にかけ声をかけてくる。だが、酒が呑めない冬子はひたすら聖の話を聞くばかりだった。

仕事以外にこれといった趣味もない冬子だが、誕生日の夜に真夜中の街を散歩するという習慣があった。毎年、十二月の自分の誕生日のたびに、冬子はひとり夜の世界を散歩する。ひっそりとした夜の街並みをさ迷う冬子は、人のいるこの世界になじめず、自分だけの世界に閉じこもり時が止まったようだ。

人間関係が希薄な冬子だったが、あるきっかけで三束(みつつか)という男性と出会う。

それまで呑めなかった冬子だが、少しずつ酒を呑めるようになっていく。だがそれは「酒を味わう」のではなく、まるで周りとの間の摩擦を消し去ろうとするかのような、どこか痛ましい呑み方だった。

やがて冬子は酒を呑んだ状態で外出するようになり、ある日、目にしたチラシがきっかけで訪れたカルチャーセンターで、気分が悪くなり戻してしまう。そのとき、声をかけてくれたのが三束だった。

髪に白いものの交じる三束は五十代くらいの、穏やかな雰囲気の男性だった。高校で物理の教師をしているという三束は、冬子同様に寡黙な性質であり、やがて二人は人気のない喫茶店で週に一度だけ会い、言葉を交わすようになる。

二人のやり取りは、しごく静かだ。初対面や知り合ったばかりの人間が口にしがちな、互いを「知る」ための出身地や身の回りのことについて話すのではなく。この現実の生々しさからはどこか遠い、様々な出来事について言葉を重ねていく。そして冬子は、次第に三束への想いをつのらせていく。

孤独な三十代の女性と、寡黙で穏やかな五十代後半の男性。そう書いてしまうと、この二人の関係性はとたんに肉体の重力を持って読者に迫ってくるだろう。だが、どうしてかこの関係性に恋だとか愛だとかの名前を頑としてでもつけたくない私がいるのだ。

人と上手く関わることができず、女であることにもどこか違和感を覚え、着飾り自分を商品として男の前に差し出すこともできない。

そんな冬子にとって、三束への思いは湿り気のある恋愛というよりは、ぽつぽつと、だが確実に同じ言葉で話せる相手と出会えた、寂しさや哀しさから来る世界との接点のようにも思えてくる。

酒を浴びるように呑み、だが味わうわけでもなく、世界との摩擦を限りなく消し去るために呑みつづける冬子。友人と呼べる相手もろくにおらず、フリーの校閲者という仕事のため、誰とも口をきかないことも珍しくない孤独な存在。そんな冬子にとって、三束は唯一の光のような存在であったのかもしれない。

眠りについた街を包み込む月の光のように、どこまでも静けさだけが広がっていくような物語だった。


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