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『推し、燃ゆ』(宇佐見りん/河出文庫)

〈推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した〉

物語はこの文章ではじまり、読者を過酷な作品世界の中へと叩き落としていく。主人公は、高校生の少女あかり。作中では病名は明らかにされていないが、ひどく忘れっぽく、やたらと物を失くし、学校では授業にまるでついていけない。

興味のあるものにはひどく集中するものの、その他の「日々の生活を積み重ねていく」ことがまるで上手くいかない。本人いわく、「ふたつほど診断名がついた」状態だ。

当然、家庭や学校生活やアルバイト先で居心地が良いとは言えず、そのためますます推しを解釈することにのめり込む。彼女にとって背骨のような存在が、アイドルグループの上野真幸(うえの•まさき)だ。

そんな真幸が、人を殴ったという。SNSでの彼やファンへの書き込みは荒れ、炎上していく。過去が掘り起こされときに捏造され、その熱狂の渦は止まらない。

そんななか、あかりはブログで言葉を発信する。日常生活もままならないあかりにとって、それは数少ない居場所のひとつだった。

〈ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に堆積している。CDやDVDや写真集は保存用と鑑賞用と貸し出し用に三つ買う。

放送された番組はダビングして何度も観返す。溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった〉(二十三ページより)

その集めた言葉で推しを解釈し、ブログに込める。そこでのあかりは穏やかで推しへの愛情に満ち、思いやりや知性の欠片が見え隠れする。現実の、「学校の勉強についていけない」あかりとは、まるで別人のようだ。

あかりは必死に推しを推すためにCDを買い、グループ内での人気投票で推しを「上位に上げたい」とするのだがそれは上手くいかず、やがてSNSに真幸の所属するアイドルグループの名前がある理由で並ぶのだ。

この物語と初めて出会ったのは単行本のときで、そのときにはわからなかったことが、文庫化した今では自分のことのように食い込む。それは私にも「推し」と呼べる存在が出来たからであり、そのグループ名をインターネットで検索したとき、「どんな言葉が書かれているか」を容易く想像できる日々を過ごしてきたからだ。

「叩いてもいい」誰かや何かを言葉でなぶるとき、人は何て楽しそうなのだろう。自分自身の正義を振りかざすとき、どうして誰もがあんなにも高揚しているのだろう。どこまでが真実で、どこまでがそうではないのか。その海を泳ぐとき、人は何て心もとないのだろう。

だが、この物語の本質はそこではない。主人公である「あかり」にとって、推しが背骨のような存在であるため、どうしてもクローズアップされがちだが、上野真幸の物語は、あかり自身の物語とは重ならない。

ふたつほどついたという診断名は、おそらく精神科の病名なのだろう。「薬を飲むと気持ち悪くなる」という理由で、その病は放置されてしまう。薬を服用しきちんとした治療を続け、専門家や必要なサポートと繋がれたなら、まったく違った人生になっていたかもしれない。

それだけの判断力や知識が本人にないならば、周囲がそれを繋ぎとめることもできたかもしれない。だが、なまじっか日常生活を送る上で一定のラインまで動けてしまっては、本人がグレーゾーンなのかどうかも宙に浮いてしまう。

かつて、まだ子どもだった頃、家にも学校にも居場所がなく、心や体を病み、「自分がおかしい」ことはわかっても誰にも相談すらできず、そもそも「相談する」という選択肢すらなかった、あの頃の自分が浮かんでは消えた。

あかりを見ていると、「守られるべきセーフティーネットから、すり抜けた子ども」という印象が色濃くうつる。それを、本人の怠惰だと決めつけていいのかと歯噛みせずにはいられない。いわばこれは、「本来なら支援が必要な状態でありながら、そこから抜け落ちてしまった人びと」の物語ではないのだろうか。

何てままならない物語で、そして残酷なのだろう。願わくばどうか、この物語のその先で、あかりが必要な支援を受け、社会というコミュニティからすり抜けないことを、ただ祈る。

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