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『大好きな本』(川上弘美/文春文庫)

何度も栞を挟んでは別のページにそっと差し込み、気になった本を紹介している箇所にピンクの付箋をつけていたら、付箋だらけになってしまった。

川上弘美という名前を聞いたとき、真っ先に思い浮かべるのは何だろう。あまりにも有名な『センセイの鞄』が浮かぶのはもちろんだが、私はそっとこの『大好きな本』を差し出したいのだ。

それにしても、川上弘美の言葉は何と美しいのだろう。たとえば、29ページ。須賀敦子の『遠い朝の本たち』を紹介するくだりのなかに、次のような文章がある。

〈思春期の読書をめぐる著者のさまざまな記憶を辿ったこの随筆集を読むうちに、本好きのひとならば、思わず本を置いて空(くう)をみつめ、ぼうっとものおもいにふける一瞬があるに違いない。〉

この言葉のつらなりこそが、私にとっては「ぼうっとものおもいにふける一瞬」を呼び起こした。

または、108ページ。堀江敏幸の『熊の敷石』についての文章の冒頭だ。

〈堀江敏幸の、文章について。そこには、少し、入りこみにくい。水の中に入ってゆくときの、入りにくさに、似ているかもしれない。体に、さからう、動きづらくてもどかしい。

けれど一度水の中に入ってしまえば、いつの間にか水はさからわず、体ははんたいに軽くなり、もどかしさは快楽にも似たものに変わってゆく。それが、堀江敏幸の文章に入っていくときの感じ。〉

ああ、と顔を覆いたくなった。初めての作家を読むときや、久しぶりに手に取る作家の作品世界へもぐっていくときの、あの自分をチューニングするような感覚が、見事なまでの結晶のような言葉で目の前にあるのだ。これが、震えるほどの歓びでなくて何なのだろう。

美しい、では足りない。深みがある、というだけでも少し違う。おそらく私は、川上弘美が書く書評について、ぴったりと嵌まるボタンのような言葉を見つけることができない。

現代文学から翻訳書、詩集からさまざまな本が、まるでマジックのように目の前に現れるのだ。なかには今の私には難解に感じるものもあったが、いつかは「読みたい」という思いに変化する作品もあるかもしれない。本との出会いは、人生のうちに幾度となくあるのだ。

最初は合わないように感じた作品でも、どうしてか引っかかるものがあり、何年もあとに手に取り夢中になることもある。自分のなかで、時を熟成させようと思った。

144冊の本のどれか、あるいは何冊かが、目にした読者の心に響き、そっと背表紙に手を伸ばす瞬間となることを願ってやまない。

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