白く小さな女の子
本日、僕は祖父母の家に行った。
もうすぐマスクが尽きるというので、うちの在庫を10枚ほど届けに。
さほど遠くないので、西日ノ直撃ニモ負ケズ、坂道ニモ負ケズに歩く。
僕がウイルスを持っていると危険なので、到着したら粛々とマスクを渡し、会話は必要最小限に留める。
「マスク持ってきたよ」「ありがとうねえ」
そして帰路に着く。
…といきたいところだが、この家にはそれを阻む女の子がいる。白猫のユキちゃん(仮名)3歳。立派な大人に相当する年齢ではあるが、活動内容は幼児そのものなので、女性ではなく女の子扱いさせてもらっている。
祖父母宅に行くと必ず、この雪のように真っ白な女の子に捕まるのだ。
彼女は「ニャーン」よりも「エーン」「ウァーン」に近い鳴き声を発しながら、僕につきまとう。
振り返って頭を撫でると「ウケケ」とか「ウーニャッ」と鳴いて少し逃げ、また近づいてくる。
僕には猫語がわからぬ。けれどもユキちゃんの言いたいことは明白であった。
「膝に乗りたい!」彼女はこう言っている。毎度のことだからわかるのである。
僕は「帰りたいんだけどな〜」と声に出してボヤく。しかし、ビー玉のように澄んだ目でジーッと見つめられるとどうも断りにくい。結局、安楽椅子に座ってしまう。
椅子に座ると、彼女はすかさず膝に飛び乗ってくる。無駄のないモーションで、音一つ立てずに、まるで何事もないかのように。猫は実に静かな動物だ。着座する際に爪が太腿に刺さり僕は呻く。猫の爪は非常に鋭い。ユキちゃんは祖母にしか爪を切らせないので、祖母が爪を切り忘れた時はこうして僕がダメージを受ける。
それからゴロゴロタイムが始まる。膝に飛び乗った彼女は、モジモジするかのように少しずつ姿勢を低くし、やがて綺麗な香箱座りを完成させ、自らゴロゴロ言い始める。
喉の下あたりから聞こえる音。いびきのようだが、何かがゴロゴロと転がっているような響きがある。未だにメカニズムの解明されていないこの音は、振動としても僕の体に直に伝わる。ガラケーのバイブレーションのような大きな振動に驚く。
このゴロゴロ音は、リラックスしている時や幸せを感じているときに出るそうだ。噂では、人間の精神にも良い影響を与えるとか。重いし動けないし足は痛くなるしで困るのだが、"幸せの音"を出してくれていると思うと少し嬉しい。
撫でなくても勝手にゴロゴロ言うのだが、時々僕の顔を見て短く「ニャッ!」と鳴く。人間語に訳せば「撫でなさいよ!」になるのだろうか。「はいはいわかりました」と呟き僕が撫でると、一層大きな音でゴロゴロ言い始める。鼻息が荒くなり、フガフガ言い始める。可愛い。
毛はふわふわで、スベスベしている。高級な冬用コートと互角の質の高さを誇る。体はモチモチしていて、いくらでも触っていられる(が揉むと嫌がる)。肉球はグミのようで触り心地が良いが、こちらもあまり触らせてもらえない。猫は基本的に手足を触られるのを嫌う。
体には匂いが無く、ただ肉球からほんのりと汗のような匂いがするのみ。
時々手を舐めてくれるのだが、匂いが一切残らない。猫の唾液は無臭なのだ。魚や鶏肉を原料にしたご飯を食べているのに。不思議な生き物だ。
これで定期的に自分の体を舐めて"メンテニャンス"しているのだから、体が無臭なのは当然である。
そうこうしているうちに2時間が経過する。この子の人生(猫生?)の幸福に貢献できていることに喜びを感じると同時に、自分はエコノミークラス症候群になりやしないかとヒヤヒヤする。
何はともあれ、この時間は風呂と同じだ。入る前はあまり乗り気にならないが、入って後悔することはない。上がった後は幸福感に包まれる。
…ユキちゃんは3年前、ごく一般的な家庭に産まれた。すでに猫の飽和状態にあったその家庭では飼うことができず、兄弟姉妹2匹とともに保護団体に引き取られた。その2匹は里親制度で早々に引き取られ、彼女1匹が残った。そこに僕の祖父母が訪れ、家へ招いた。
この時わずか生後5ヶ月。生まれてまもなく親から引き離され、一緒に生きてきた兄弟姉妹も次々に引き取られ、とうとう一人ぼっち。施設の小さなゲージでご飯を食べて寝て、たまに施設のスタッフと遊ぶ日々。この環境に次第に慣れてきたタイミングで、今度は見ず知らずの人の家に連れて来られた。人間よりも成長が早いとはいえ、生後5ヶ月でこれだけの試練を与えられるなど、僕にはとても想像できない。
引き取られて祖父母宅に到着した後は、慣れない環境に驚いて逃げ回り、3日間ほど納戸に引きこもっていたそうだ。人間でも3日間飲まず食わずで引きこもるのは辛い。猫にとっての3日間は人間の何倍も長く感じられる。どれだけ怖かっただろう。
幸い彼女は1週間ほどで家に慣れ、祖父母に慣れ、今はグダグダヌクヌクの幸せな生活を送っている。しかしここまでの道のりは過酷だった。先の見えない不安と戦いながら、その場その場で必死に立ち回り、片足の太腿に乗ってしまうほどの小さな体で、彼女はここまで生き抜いてきた。
ところで僕は今、人生で最も苦しい時期を過ごしている。いつ終わるともわからない闇の中で、なるべく楽しく日々を過ごすようにしているが、将来そのものに悲観的なので何をするにもイマイチ気が乗らない。そんな自分に毎日嫌気がさす。
それでも、まだ人生を諦めるには早い気がするし、これまでの努力がもったいないし、今死んだら家族親族に多大な迷惑をかけることになるし、何より死ぬのは怖い。
そんなこんなで、生きるか死ぬかを決断できないまま、ボンヤリと中途半端に時は流れている。
白く小さな女の子は、僕が帰宅する直前まで、膝の上で呑気にゴロゴロ言いながら何処かを見つめていた。膝から下ろされたときは不服そうに伸びをしていたが、すぐに祖母の膝へと移って行った。"ニャンダフルライフ"ここに極まれり。僕も試練を潜り抜けたら、この子のように幸せになれるのだろうか。
お金に余裕のある方はもし良かったら。本の購入に充てます。