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フーコーの振り子とその眩暈

神保町を散歩するのが好きだ。澤口書店の前に積んであるこけしに新顔を見つけるのも楽しいし、北澤書店で適当に開いた洋書がうん十万円してぎょっとするのも一興だし、豆本を漁ったり、オークションでお爺さんたちの真贋判定や値付けの囁きを聞きながら博物館級(かもしれない)の戦国武将の墨蹟を眺めるのもまた楽しい。
渉猟に飽きたら、文房堂の二階でお茶をしてもいいし、皇居の東御園まで行って、手荷物検査の皇宮護衛官に買った本を見せびらかしたり、今の季節なら梅の花の香りを聞き比べたり、尾の長い鯉を無心で眺めたりするのもよい。

昨日、ふらっと通りかかった店で、思わず色紙を買ってしまった。文豪の原稿であったり、古い写本なんかを扱っている玉英堂の入り口の、ちょうど目の高さにこの色紙がかかっていたのだった。

めまいよ こい
地球はまわり
ぼくは
錘のように
坐っている
                               太郎

通りすがりに横目で見て、思わず立ち止まってしまった。これは地球の自転を演示するフーコーの振り子の錘に人の視点を見立てた詩だったからだ。

フーコーの振り子は、空気摩擦による減衰や風の影響が少なく、一度振れば数十時間の間休みなく同じ軌道を描いて動き続ける振り子を使った演示実験である。この場合の錘が描く軌道は地球の自転に依存しないため、回転する地球から見ると振り子のほうが自転と逆方向に回っているように見える。極では一日に一周して、日本では1日半ぐらいで一周、赤道では全く動かない。東京だと上野の国立科学博物館で見事な展示が行われている。

科学博物館公式チャンネルの動画
https://www.youtube.com/watch?v=_gATmUdab5A

じっと同じ軌道を取り続ける振り子の鉛の錘から見れば、それこそ眩暈のように景色は回転している。「めまい」はむしろ、移り変わる世の中に反して「ぼく」が一貫性をもっている証である。

思わず買ってしまい、雨の中をコートの下に抱えて持って帰った。ネットで検索してみると、山本太郎という詩人の作品であることが分かった。色紙のもととなった原詩も見つかった。

地球がまわり
俺は力ずくで坐っている
めまいよ こい
いきていることはすばらしい
風よ こい
ふかい空とつりあうために
錘のような心がある
地球がまわり
俺は力ずくで坐っている

Indust : 産廃処理と資源循環の総合専門誌 [1985] 13(2)(124)

 
見つける過程で、世の人のこの詩の解釈も出て来て、とても楽しい。題材が分かってしまうと、その「正解」に飛びついてそこで満足してしまうけど、わからなかったらそこから千種の解釈を呼び出すことができるのである。どこかの私立中学の入試問題にもなったこともあるらしい。12歳ぐらいのドッジボールが好きな男子小学生が、謎の詩をみて混乱するところは想像するとなんだかほほえましいけれど、「正解を知っている」側からするとぎょっとするような、新鮮な解釈を出してきそうでもある。

なんとなくわからないままが美しいであろう、と思いつつも「解き明かし」てしまうのが科学者のさがで、そこで黙って微笑んで世の人の受け止めを聞いていたら詩人になれるのだろうか。だからこの詩のモチーフは、色紙が出回るほどには人の目に触れているのに、あえて説明されないままなのだろうか。

家の中を歩き回り、いろいろなところにかざしてみて、結局仕事机の前に掛けることにした。何となく、座って書き物をしたり、仕事をするときに勇気づけてくれる気がするからである。

こういうことがあるから神保町の古本探しはやめられないのである。



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