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文脈性の高い文化にいる幽霊たち

小説、漫画やホラー映画に出てくる「見えないふりをしなければならない」幽霊について、良く思うことがある。こいつらの題材は一体何なのだろう、と。

幽霊が見える人と、見えない人がいる。また幽霊が見えると、それだけで幽霊から襲われやすくなる。訓練を積むことで対処することができるようになるが、見えないようになることはできない。見える人は、多くの場合繊細な人格の持ち主である。

何となくこの「幽霊」は、人間関係の文脈性が高い状況において発生する悪意のある含意の恐ろしさを、それが見えない人に共有するために発明された舞台装置なんじゃないか、という気がしている。

例えば、友人の集いで、テーブルクロスには犬の柄が使われている。あなたは子ども時代に狂犬病の犬に襲われた経験から、犬が嫌いだが、他の友人たちはそのことを知らない。主催者のみが知っている。あなただけが、狂犬病の犬に襲われること、主催者が犬をけしかけている幻を見て、恐怖する。主催者は、あなたが気づいたことに気づき、さらに会話を犬の話題に誘導する。

ちょうどそんなふうに、多くの文脈を共有しているからこそ、指向性の高い攻撃を行うことができる。あなたが別の友人や家族に「主催者から嫌われているかも」と相談しても、「気のせい」で済まされる範囲を慎重に選んで、攻撃は繰り返し行われる。だから、最初から気づかれてはいけないのだ。この幽霊が見えていることに気づかれないように、何もなかったかのようにふるまうのが一番良い対処だ。気づかれてしまってからではもう遅い。

このような人間関係上の問題は、神話の世界や物語の世界のように、一つ違う次元に移してやることで、皆が同じ視点から「幽霊」を見ることができるようになるため、一同に共感できるようになる。

同じ「見えないふりをしなければいけない」幽霊のもう一つの根源は、街角にいる不良なのかもしれない。何も気づかないふりをして通り過ぎればそれでよいけれど、目が合ってしまうと「ガンつけた」ことになってしまう。都会で電車に乗っていると出くわす、あの風変わりな人々もそうかもしれない。十中八九若いか中年までの男性だ。電車の中を歩き回り、容姿の良い若い女性の目の前をうろうろしながら奇声を発する。気づかないふりをしたらターゲットは他に移るが、怖がるなど反応してしまうとずっと目の前で奇矯な行動をとり、もっと反応を引き出そうとする。いかにも「幽霊」らしいふるまいではないか。

この「見てはいけない」幽霊は、いつから創作物に現れるようになったのだろう。恨みを持った人の祟りは祀る、調伏することで対処するのだし、認知機能のバグによる幻覚や妄想(ねじの回転)とは地続きではあっても虹の両極程度にはかけ離れたものだ。それらとはかけ離れた、「見てはいけない幽霊」はいつから現われるようになったのだろう。何となく日本のような文脈性の高い文化ほど出現しやすいように思われるが、他の国の創作物にもみられるのだろうか。

いたるところにいつの間にかいて、市民権を持っている。けれど、誰が発明したのかはわからない。そんなところもまた幽霊らしい。でも、出現しはじめたのは、何となく幽霊やお化けが「存在しない」ということが広く認知始めてからではないかと思う。江戸時代に、誰もいないのに天井がきしむ音がしたら「家鳴りという妖怪がいた」ことになる。柳の下に幽霊がみえたら、それは幽霊だ。現代ではそれらの幻は、すべて人間の脳の認知のバグなど、それらしい科学的な説明があるか、少なくともある「はず」であることが常識になっている。もともと妖怪だった家鳴りなんて、今となっては住宅用語だ。私も子どもの頃は、トイレに行くと見える幽霊に怯えて、「いない、いない、いないと思えばいなくなる」と自分に言い聞かせていたものだ。そして、確かにいないと思いさえすればそれらの幽霊の気配は薄れ、大人になるにつれていつしか見えなくなっていた。万人がそのような原体験を共有したうえで、人間関係の上で似たような状況があった際に過去の成功体験から同じことを繰り返しているために生まれたのが「見てはいけない幽霊」なのじゃないだろうか。

いい加減この「見てはいけない幽霊」にも、花子さんや口裂け女のような名前があってもよい頃なのにな。

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