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一瞬と一部のあいだに

スピッツの猫になりたい、という曲があって
たまに聴く。

猫を触ると心が和む。
ふんわりした感触にぷにぷにした肉球、ひらひらぴんっと動くしっぽ。
しっぽが丸い奴もかわいい。フリフリしてる様が可愛い。
存在自体が可愛い。癒される。
私は生まれ変わったら猫になりたい。
何度も思ってることなので来世ではそろそろ猫として生きても良いかと思う。日長、日向ぼっこして生きていきたい。
たまには、シャーッと威嚇していきたい。

小さな頃から猫が生活の中に居た。共に遊び、遊ばれ、追いかけ回し、撫で回した。寂しい時は頭や背中を撫でる。猫は可愛いなぁと思って出かけようとして靴を履いたら濡れた感触に触れて、おしっこされていたりと憎たらしいところもある。
私のランドセルは爪研ぎと化し、四年生までしか使えなかった。
しかし、それでも可愛いのである。可愛いの一言で大体済まされるのも羨ましいし憎たらしい。

ひとりっこの鍵っ子だった私は、家に帰っても大体一人だった。
友達と遊びに行ったりはよくしていたが、夕飯時になると帰らないと気まずいので帰宅して、親の帰りを待っていた。猫はにゃーんとしか言わないけど、たまにただいまくらいは言ってくれていたように思える。ただいまを言うのは私の方だ。
寂しい、とよく思っていたが、共働きの両親のことを思うとあまり言えなかった。我慢してきた部分はよくある。一人でいることには慣れているが独りでいることには今でもあまり慣れない。

自分の家に居るのに、
とてつもなく寂しくなって発狂したり
変なものが見えたりすることがあった。
実は最近もその、変なものが見えてるような感覚があった。
視界の隅にいるのに、ピントを合わせると全く居ない。
実在しないのはわかるのに、何かが居る感覚がする。


自分のことを考える時間が多くなってみて、何となく思うのは、
不安という感情はなかなか厄介というか
消えてくれない。

なので、ふあんちゃんという名前を付けて
ふあんちゃんがやってきたら添い寝するイメージをするようにしてみた。
(ちなみに公開したことはないが、漫画に描いてみたこともある)

ふあんちゃんは昔の私。
ふあんちゃんは、寂しがりやで泣き虫。
ずっと、不安なことしか考えてない。
夜泣きし続ける幼児のよう。
それでも、いつか泣き飽きて眠る。

いくつもの眠れない夜をやり過ごしても
こんないい歳した大人になっても
不安はまだまだやってくる。
もう、考えても仕方ないことばかり考えてしまう。それにも最近疲れてきた。

そもそも、脳は考え過ぎなのだ。動き過ぎだ。
休む事を知らないのか。何故休まないのか。何で私はここまで何かをずっと考えているのか。

マインドフルネスとかやってみよっかなー、とか思う時もある。写経をやってみたら禅の心を掴めるかとか、禅にも興味がある。がやったことはない。
何か機会があればな、くらいにしか思わない。なので、多分そこまで興味が無い。

ただ、タバコを吸ってる時、ボーッとしてる時間は微かにある。
眠る時は多分、考え事してないだろうし(でも、脳は寝てる間に物事を整理してるという)

人より考え事が多いのか?というより、余計な事をあれやこれやと物耽ってる事の方が多いようにも思う。


今、ここ、自分。

昔のどこかで聞いた言葉。


「切り取ってよ、一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
私は今しか知らない
貴方の今に閃きたい」

東京事変・閃光少女の歌詞の一部。


”私はあらゆることに無関心だ。そして私は世界を知らない。そして、私自身、そうした世界の一部だ。”

昔どこかで買ったポストカードに書いてあったメッセージ。

私は世界の中で、ちんまりしたものだけど
それはそれでいいし
世界を知りたいとも思うけど
目の前の事にいつも集中する。
悪く言えば先のことは良く考えてなかったりする。今が良ければそれで良いというのも正直ある。
起きた朝があれば、明けない夜は永遠に感じる。
世界でたった一人でいるような寂しさに飲み込まれそうになる日もあれば、
そんな夜が自分だけの特別だと思う日もある。

宝物は私のこの2本の腕で、私のこの10本の指で触れられるものこそが全てだと思ってる。
私にとっては、それを超えるとキャパオーバーする感覚。

あまり多くは望まないようにする。
望んだところで叶わなかったら悲しいから。

多分昔から、悲しさと憎しみと怒りに弱い。
強い人は強いと思う。これがコントロールできない私は弱いと思ってる。
でも、その差異は特にひけらかずに居たい。
見せたところで他人には関係ない。
私は私で、他人は他人だと思えるようになってきたのはつい最近だ。
多分、双極性障害になってからかもしれない。

やっと、肩の荷が降りたような気がした。
これから地道な闘病生活が続くのに
何故か安堵しているところも部分的にある。

これからも多分、いろいろな事が目の前を通り過ぎていく。
目を離さずに見ていきたい。
ずっと、ずっと見ていきたい。


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