看板を下ろして、大人の勉強をする
大学を卒業して、1年と4か月ほど経った。
長らく背負ってきた「学生」の看板を下ろした今、私はなぜか、猛烈に勉強がしたくてたまらない。
これは長かった学生時代の名残か。はたまた日本の教育カリキュラムによる洗脳か何かか。
否、これはきっと「学生」という肩書からの解放によるものだと思う。
私はその「学生」の時代から、他人に強制されることが何より嫌いだった。
母からやれと言われた習い事はことごとく身が入らず、辞めてしまえと言われた部活にはとことん打ち込んだ。
学校の課題も真面目に取り組めず、塾も通信教育も続かず、結局いつも自ら本屋で選んだ参考書を愛用していた。
思い返せばただの反抗期だったようにも感じるが、そのマインドが今も続いていることを考えるときっとそれだけではない。
人は、少なくとも私は、自分が決めたことや自分から行動したことに対して、楽しさを見出す生き物なのだと思う。
思えば「学生」の時代の課題やら塾やらはすべて受け身の勉強であった。
何もしなくても授業が開講され、課題が出され、成績が悪いと補講に呼ばれ、勉強する環境が大人たちによってお膳立てされている。
しかし大人になると、勉強したいと思えばまず情報を集め、評判のよい参考書を探しに本屋へ赴き、ゴールも自分で決めねばならない。
それは一見労力のかかることに思えるが、いざやってみるとその「自分で決める、自分でやる」が勉強の楽しみやモチベーションになっているようにも思えるのである。
「楽」が必ずしも「楽しい」と同等ではないのである。
むしろ、「苦」を自ら選ぶことに、日本人は楽しさを見出す傾向にあるようにすら思える。
これは苦しく長かった学生時代の名残か。はたまた日本の教育カリキュラムによる洗脳か何かか。
そんなことをふと考えた。
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