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我が振りを直す反省手記

 最近、余裕というものがまるでなかったように思う。それは、例えば学業が忙しすぎたり、アルバイトでクソ客に苦しんだり、年末年始は祖母の介護に走り回ったり、はたまた古戦場とかいうブラックコンテンツに参加させられたりと、要因は様々。ともかく、12月・1月という月は1日中休める日というものが1日たりとも存在しなかった。今これを書いているのは30日のバイト終わりであり、明日は大学院で用事があるので休みではない。
 さらに付け加えると、2022年においては1月だけですでに3回も徹夜をしている。これは身体の弱い自分にとってはかなりの非常事態であり、無茶そのものだ。徹夜翌日は意識は飛ぶわ頭は回らないわで散々な状態なのだが、それをしなければいけないだけの理由があったのだから仕方ない。せめてもう少しタスクを分散させておけば、という後悔はあるが、覆水は盆に返らないし時は巻き戻せない。よって、起きてしまったものはそこでなんとかするしかない。その結果は1ヶ月3徹夜というバカの所業だったのだが。

 そんなこんなで自分に余裕がなくなってくると、徐々に他責的になる。言葉の時々に棘が混じり、他者とのコミュニケーションが煩わしくなっていく。そのうえ大学院という場所は古い伝統に脳を縛られている教授達が作り上げた村で生活するというカスみたいなサバイブを行う場所なので、イライラは募るばかりだ。昔から続いているだけの非合理的なモノを強制させてくるのをやめろ。
 心に余裕さえあればこんなイライラも皮肉と暗喩で包みこんでポイできるのだが、最近までは「包み込む」などという作業を行う余裕すらなかったので生じた負の感情をそのままぶん投げていた。挑まれてもいないのに他者に張り合おうとし、少しでも負ければ怒りに燃えていた。阿呆だった。その結果、口には出さないが嫌な思いをした知人もいたのではないかと思われる。

 ……改めて思い返すとよくなかったなあ、と思う。いや、本当にすみませんでした。1日休みこそないが休憩時間が半日を超えることが増えたので、こうして振り返る時間が持てていることをありがたく思う。
 どれだけしんどくても何かしらで負の感情を包む作業は必要だったし、自分がどれほどしんどいかを打ち明けられる人に打ち明けるべきだった。たとえそれが自分にとってどれだけ恥ずべきことで、プライドに反することだとしても。プライドを無視しても傷つくのは自分だけだが、そこに固執すると自分以外の複数に被害が及ぶのだから。

 別に人の振りを見なくても、自分の振りを確認することはできるし、それが悪いと思えば直すことだってできる。少なくとも、自分にはある程度その能力が備わっているはずだ。"感情任せでガンガンいこうぜ"ではなく、いつだって"りくつだいじに"の精神を忘れない、それが理想のぼくだ。
 何を直せばいいか分からなくなったら人の振りを見よう。インターネットには悪い振りがこれでもかというくらいに溢れている。「下手したらオマエもあんな風になっちゃうぞ」と、心の中に住む僕がニヤニヤと笑ってくれる。そこでようやく、「あ、これはちょっとマズイぞ」と立ち止まる機会を与えてくれるのだ。ありがとう、インターネット。ありがとう、心の中の僕。オマエ後でしばく。

 

 こうやって文章を書くのもレポート執筆を除くと久しぶりだ。なんかこういう場に合わせた文章の書き方みたいなのも前は意識していたはずなのだが、もう覚えてない。でも昔の文章を読み返すのはなんか今恥ずかしいからあんまりしたくない。ここいらで一度終わりとして、落ち着ききってからゆっくりと見返そうと思う。羞恥に染まる時間は、心に余裕を取り戻してからじゃないと耐えられないだろうから。



 

あと、大学院はクソ。

これだけ覚えて帰ってください。それじゃあまたいずれどこかで。

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