若さなのか、逃げなのか

悪いテキストを書くんじゃあない

 この記事のテーマのタイトルは今ツイッタランドで話題の「誹謗中傷」についてである。

 「某氏を自殺に追い込んだ奴らを許さない」とか、「誹謗中傷をする奴らはクズだ」とか。ツイッタランドは今、そういった言論でにぎやかになっている。だけど、「許さない」ってじゃあ具体的にはどういうつもりなのか。誹謗中傷をしている人間に対して「クズ」と誹謗中傷していたりするのは果たして許されるのか。きっと誹謗中傷を許さない人たちは、「誹謗中傷をしているやつはクズだ」という人をも許さないに違いない。

 僕はああいう社会的正義側に立とうとしている人間が苦手なので、こういう言論を見るとすぐに粗探しをしてしまう。我ながら悪癖だと思うが、どうにもやめられない。挙げる足を見えるところに置いているのが悪いのである(責任転嫁)


 誹謗中傷がいけないことだというのは殆どの人間が知っているのだ。そんな中で誹謗中傷をしているのは「それが誹謗中傷であると認識していない場合」もしくは「誹謗中傷がよくないことだと知っていてやっている場合」だ。

 さて、そんな彼らに「誹謗中傷はよくない」と叫んで果たして通じるだろうか。前者は恐らく「そうだ!誹謗中傷はやめろ!」と叫ぶだろう。誹謗中傷をしたと認識していないから、自分が批判の対象になっていることを知らない、気づかない。もしくは受け入れようとしないからである。で、後者はもっとどうにもならない。よくないことと知っていてやっている人間に「それはよくない」と言って果たしてやめるだろうか? 

 否である。殆どの人間は誹謗中傷をやめないだろう。他人を叩いて快感を得るプロセスは、ある意味一種のドラッグともいえる。強い他罰的性質を持った人間にとって、他人を叩くのは気持ちのいいことなのだ。

 つまり、彼らに対してどんな注意をしても無駄だ。僕はそう判断する。


ぶらっくひすとりー

 僕は小さい頃、誹謗中傷を他人に向けてした記憶が明確に残っている。当時の僕は誹謗中傷には誹謗中傷と煽りでやり返すのが主流スタイルだった。ガキの喧嘩なぞ本当に単純なもので、ちょっと過去の言動を論いつつ煽ってやればすぐに相手は僕を殴ってきた。そして学校社会ではどんな場合であれ「殴ったほうが悪い」という暗黙のルールが存在する。特に昔からの風習が残る保守的な(つまり田舎だ)ところでは余計に。ゆえに殴られたが最後、あっという間に被害者の出来上がりだ。僕は味をしめて、ちょっとでも人格否定や見た目を馬鹿にされたらすぐに揚げ足取りと煽りに精を出していた。

「そんなすぐに怒るのよくないって。カルシウム足りてないんとちゃう?……あ、ごめん。足りてないのは頭か(笑)」
「なんか悩みなさそうでいいよな。そんなこと考える脳が足りてないもんな」

 当時は上記のような言葉を嬉々として使っていた。今となっては黒歴史である。力では到底及ばないのなら口先で戦えばいい、僕にはそれしかないと、昔の僕はそう信じていたのである。まあ、今でも僕には口先しかないと思っているのだが。

 そんな僕は他人に「誹謗中傷はよくないことだ、やめろ」という資格を持ち得ないだろう。自分が出来ないことを他人に命令するのは――それが能力的に他人にしか出来ない場合を除いて――やるべきではないと考えているからだ。だから、僕が言う「誹謗中傷はよくない」というのは結局の所、自分への戒めなのである。

 だから、僕は他人に「誹謗中傷はよくない」「誹謗中傷をやめよう」と言っている人間に同調しない。僕にとって他人にそれを強要するのは逃げだからだ。

 若さとは振り向かないことである。ゆえに社会的正義に燃える若者達は過去の自分を振り返らずにただ前だけを見つめて誹謗中傷を批判する。「自分が誹謗中傷をしたと認識していない」からこそ、純粋な善意で正義になれるのだ。

 逃げとは過去からの逃げである。過去の自分の言動が見えているがゆえに、それを見ないふりして社会的正義側へと逃げようとする。「過去の自分」はいなかった。そう暗示するのである。

 これは間違いなく僕にとって黒歴史だ。今思い返しても恥ずかしい過去だ。それでも、確かに間違いなく、それは過去の自分だ。それがなければ今の自分はいないのである。だからこそ、どれだけ消したい過去でも恥ずかしくても、自分の一部として受け入れるべきだろう。これは、僕を支えるささやかな意地だ。

 勿論これを他人にも押し付けるわけじゃない。僕にそんな権利はない。だけどせめて、"他人の振り見て我が振り直せ"――他人に何かを言う前に、一度自分がそれを守れているのか再確認すべきなんじゃないだろうかと、そう思う。


結局どうすりゃいいのかという話

 最近はインターネット上での名誉毀損に対する裁判例が増えている。そして、全てを知るわけではないから断言は出来ないものの、ほぼ100%の確率で名誉毀損の被害者は勝訴することが出来るだろう。要は、誹謗中傷を行っている人間は人の形をした慰謝料なのである。web上の魚拓とか持って法テラスに駆け込んだら案外簡単に仕事をしてくれた、みたいな話を聞いたこともある。全て「やったもん勝ち」の世の中ではなくなってきているのだ。

 とはいえ、相変わらず誹謗中傷をする側が優位なのもまた事実。対処法は無視するか、あるいはやり返すか。だけど無視では誹謗中傷は中々消えはしない。寧ろ、悪い噂が事実であるかのように流れて結果として自分の評価が落ちたり、仮にブロックしたとしても別垢で突撃されたりと、特に有名人からすれば心の休まる暇は中々ないことが想像できる。やり返す、というか反論をすれば「有名税だろ!影響力がある人間がこんな弱小アカウントを叩くな!」という「お客様は神様だろ!」的な反論が来ることは容易に想定できる。

 先程裁判すりゃあ大抵勝てるという話をしたが、それには結局こちらが余計な面倒を背負うことになる。弁護士への依頼金や裁判でかかるお金もそれなりに高くつく。さらに手間もかかるので、結果的に出費以上の慰謝料が取れたとしても精神的な徒労は免れない。まだまだ、インターネット上での誹謗中傷は根強い力を持っているのだ。

 だけどまあ、やり返すっていうのは大事だと思う。それは決して誹謗中傷に誹謗中傷で返すわけではなく、あくまで理屈に則って、ネチネチと、陰湿にやり返すのだ。屁理屈で返すのもいい。屁理屈は文字通り屁のような理屈、あるいは筋道の通っていないのことを指すが、えてしてそういうものは理屈で返せるものなのだ。つまり返せないほうが悪いのである。大事なのは、相手の人格を否定するのは誹謗中傷だが、相手の意見を否定するのは批判であって、殆どの場合誹謗中傷にはならないということだ。ならば相手の意見を徹底的に否定(批判)すればいい。「有名税だろ!」理論には「有名税だからと言っていいのは有名人側だ、お客様は神様と客が言うのか?」とでも返しとけばいい。影響力がなんだ、インターネッツ上では平等だ。


 結局、誹謗中傷には屁理屈や理屈で反撃する、つまり正論で叩き潰すのが一番手っ取り早いというのが僕の意見だ。ツイッタランドなら通報してとっとと凍らせる(凍結の意)のもアリだ。やられたらやり返す――古典的ではあるが、これはきっと現代に最も適した処世術なのだと思う。

 さて、最後にあの某人気作品の作者による新作(すでに連載終了)から誹謗中傷の言葉を引用して終わりたい。誹謗中傷にはとても聞こえないので、正義のヒーローが怖い人たちにも安心だ。

「まるで八丸くんみたい」

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