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かつてヤンゴンでは米倉涼子の笑顔が続いていた

初めて投稿します、ハッサンです。宜しくお願いします。

2021年2月になって、ミャンマーで軍が非常事態を宣言してアウンサン・スーチーさんが拘束されたってニュースが飛び込んできた。
発展途上国ではとかくこうした事態が起きる。しかも、ミャンマーはスーチーさんが政権を取ってからそんなに年数も経っていない。以前はアジア最後の発展途上国とも言われていたけど、ここ数年でミャンマーのニュースと言えばロヒンギャ問題だけだったように思う。
このニュースに関してこれ以上のコメントを差し挟むネタを持ち合わせていないので、ちょっと旅の記憶を振り返ってみたい。尚、写真はいずれもマンダレーで撮ったもの。

(1)きっかけは堀田あきおのマンガ

元々、この国を旅してみようと思ったのは、堀田あきおのマンガ「アジアのディープな歩き方」だった。インドや東南アジアの旅を描いていたけど、インドは2度も訪問しているタイもなにかとトランジットで利用しているのでパス。ロンジーを履いたビルマの人々がとにかく優しく描かれていたので、気になっていたのだ。マンガに載っていたヤンゴン市内のSun Flower HOTELって安宿に一泊した。
私がミャンマーを訪れたのは2002年の年末だった。バンコク経由でヤンゴンに入って、夜行列車でマンダレー地方に往復した。旅としてはシンプルだけど、当時は軍政が敷かれていて空港では強制両替が必須だった。現地通貨チャット(当時のレート100MMK=13円)の他にFECと呼ばれる軍が発行する通貨を必ず受け取る必要があった。FECとはForeign Exchange Certificateの略で、米ドルと等価の外貨兌換券として1993~2013年に使用されていたもの。もしチャットが余っても出国時に米ドルと交換できるけど、FECはとにかくミャンマー国内で使い切らないといけない。外貨と自由に交換できないのだ。しかも、オモチャのお札のように安っぽい紙幣だった。
ミャンマーは決してハイパーインフレの国ではなかったが、外国人プライスは存在する。それは普段あまり意識しない、と言うか短期の旅行者にとってやり過ごすしかないモノだ。でも、ド田舎に行くとあまりの安さに驚く事がある。
確かマンダレー郊外だと思ったが、渡し舟がもの凄く安かった。正確に覚えていないけど、電車が1000円なら、船が1円くらいの価格差だった。前者は外国人プレミアムが乗っかっており、後者は地元の住民も日々往来に使っているものなんだろう。橋が架かっていなければそれを使うしかない。こんな所で二重経済が見えてしまう。勿論、それを批判するつもりはない。例えば中東・ヨルダンの遺跡とかで外人は有料、でもアラビア文字が読める人は無料なんて類もあったし、それはそれで構わない。

(2)アウンサン・マーケット周辺で

2002年と言えば、どんな年か。北朝鮮から5名の方々が帰国を果たしていたが、私はと言えば某テレビ局のシステム構築に関わっており半ばその本社ビルに拉致(失礼!)されていた重たい想い出がある。当時はまだ日本の商社でも丸紅だけが先行してミャンマーに進出していた時期だったと思う。
最大都市のヤンゴンには鉄道駅の近くにアウンサン・マーケット(確かアウンサン将軍にちなんだ命名)があった。その近くを通ると、米倉涼子のキラキラした顔が載った横断幕がずっと続いていた事を覚えている。何かの化粧品の広告だった。当時はまだ「ドクターX」なんて演じていなかったし、「私、失敗しないので」なんて決めゼリフも生まれてなかった。美人モデルとして売り出した頃だったのか。日本の流行とほぼ同時期にミャンマーで米倉涼子の笑顔をこれでもかと思うほど見た事は驚きを持って印象に残っている。自称ガイドの男に「スーチーさんってどこに軟禁されているの?」と聞いても口ごもってしまうけど、あの横断幕を指さして「俺はヨネクラリョウコを知っているゾ」とハッキリ答えてくれた。ガイドとしての自己アピールに余念ないな、と思いつつも返す言葉はなかった。むしろ、マーケットの店先に並んでいた読書台(でいいのかな)が気になった。木の板を2枚組み合わせたもので折り畳めば持ち運びできる。ただ、如何せん土産として持ち帰るには嵩張るので諦めた。

(3)ミャンマーらしさ

ミャンマーと言えば、タナカとパゴダだ。いずれも、この国を特徴付ける伝統的なものだ。マンダレー地方に行くと、女性や子供達はタナカと呼ばれる日除けの粉を頬っぺたに塗っていた。いかにも愛らしいと言うか、旅人に素の姿で接してくれるのが嬉しい。どこかの寺院でタナカを塗りたくった子供達と撮った写真を翌年の年賀状にした。
<子供たちと仏像の前で>

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黄金のパゴダ(仏塔)も有名だ。シュエダゴン・パゴダとかヤンゴンの大通りにあるパゴダも見学したけど、敬虔な仏教徒ではないのでこちらは大して記憶に残っていない。ただ、ヤンゴン郊外で川の中州に建てられた寺院に行った記憶があるくらいだ。

(4)赤い油の浮いたカレー

食い物はカレー。インド風よりもタイ風カレーに近い。ただ、唐辛子の赤色でギトギトした油がべっとり浮いているので、正直なところ苦手だった。紙ナプキン代わりにおいてある卓上トイレット・ペーパーで汗を拭いていた。主力ブランドのミャンマービールの大瓶は安くてウマいし、チャーハンで十分だった。
この旅でも安宿を彷徨っていたけど、1泊だけシャングリラ系のトレーダーズホテルに投宿した。ここの朝食で出されたカレーがあまりに美味しくてビックリ。市井のミャンマー風カレーとは全く違うもの。マラウィスタイルのLentil(ネギ)カレーと書かれていた。当時はLentilって単語を知らなかったし、ネギの姿形もなかった。でも、トロミも付いていて上品な味わいで、ついお代わりしてしまった。
その数年後に旅先を決めあぐねていた時、カレーの味だけを動機にしてマラウィに行こうと思った事がある。同国はタンザニアの西側に位置する内陸国。当時は「地球の歩き方・東アフリカ編」に同国の章が設けられていたけど、どこを探してもカレー情報は見当たらなかった。なので、東京のマラウィ大使館に「ネギが入っているカレーが美味しいオイシイと聞いたけどどうですか?」と電話で訊いてみたけど、何ら情報を得られなかった。川に棲息している吸血虫とか怖そうだし、もうその頃には西アフリカの内陸国(マリ)とか南のナミブ砂漠をリアルに見ていたので、またまた改めて怖いモノ見たさでブラック・アフリカを再訪する気も萎えており渡航は見合わせた。
<寺院巡りはリクシャーで>

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(5)「あなたは私のお兄さん」と言われて

ミャンマーで何と言っても一番驚いたのは、対日感情が良好な事だ。いろいろ渡航した国々の中で親日感情が最も良好だった。「猫舌」とか喋ってくるトルコと比べても親日的だ。
第二次世界大戦で日本が侵攻したのに、若い人も含めて日本の歌を披露してくれたのに驚いた。「上を向いて歩こう」、「北国の春」あともう1曲あったけど、すぐには思い出せない。「星影のワルツ」だったかなあ。どれも戦後の歌だし、もしかして千昌夫はビルマ興行でもしていたのか。とにかく「上を向いて歩こう」は何人ものビルマ人が歌ってくれたし、こちらも歌った。決してバクシーシを要求する国でもない。
マンダレー滞在の最終日に大学を卒業したばかりだと言う女の子に日本語で話しかけられた。日本語で手紙を書きたいと言うので、伝えたい内容を教えてもらうとそれに相応しい日本語を私が口頭で伝えていく。それを、彼女が日本語で筆記していった。驚いたのは彼女が漢字とひらがな、カタカナを正しく使い分けて文章を書いていく高スキルだった。単に日本語を書けばいいでしょ、ってレベルではなかったのだ。自分が中高大で英語を勉強したと言ってもそんな口述筆記は到底できない。話しながら彼女は「お兄さん、私は妹」と何度も繰り返していた。「お兄さんの時間があれば私の家に招待する」とまで言ってくれた。付いていってみたい気もしたが、如何せんサラリーマンの短い休暇なので、融通が利かない。何か怪しい気配も感じないではなかったが1時間くらいで別れた。
帰国後に彼女からエアメールが届いた。旅の縁はなかなか続かないものだけど、これには驚いた。こちらからも返信して、2通目が届いた。名前も覚えていない(当時の旅ノートを探せば書いてある筈)し、どんな内容だったか定かでない。ただ真面目で真摯な印象だけはハッキリ覚えている。当時は軍政だったから、大学を卒業しても仕事がない、日本に留学しようにも金銭面だけでなく軍政故の渡航制限があったと語っていた。
海外の出会いには怪しい誘いも確かにある。でもそれはあくまで稀なケースであって、なるべく相手を信用して話してみる度量は持ち続けたいものだ。

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