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【エッセイ】御殿山を歩く②~京阪編~

前回のあらすじ]
「とにかく電車に乗って、一度も降りたことのない駅で降りよう。知らない町を歩こう」
そう思った僕は部屋を飛び出した。


 僕は真っ直ぐに京阪電車の丹波橋(たんばばし)駅に向かった。

 京阪本線は大阪・淀屋橋(よどやばし)駅から始まり、終点の京都・出町柳(でまちやなぎ)駅まで42個の駅が存在する。しかしそのうち、特急電車が停まる駅はたったの12個。京阪の特急は、実に30もの駅をぶっ飛ばし、観光クルーズが運河を巡る水都・淀屋橋から、鴨川デルタにトンビ舞う出町柳まで、1時間弱で走り抜ける。

 丹波橋は特急が停まる12の駅の8番目というそこそこ中間地点に位置しており、京都・大阪どちらの方面に出るのにも非常に便利で重宝している。しかし、そこを拠点に動く僕にとって「特急にぶっ飛ばされる30の駅」、もっと言えば中書島(ちゅうしょじま)駅より南、大阪側の「ぶっ飛ばされる駅」の記憶というのは、非常にモンヤリとしていて曖昧である。曖昧というより、まず殆どの駅を知らない。意識したことがない。考えたことがない。「イマイチ覚えていない」というレベルではなく、僕の中ではまだ存在すらしていないと言っても過言ではない。
 京都・大阪エリアで暮らし始めてもう15年目に突入するが、これだけ使い倒している京阪沿線の、その大半の駅が僕にとっては夢、マボロシ、蛤の吐いた蜃気楼のように不確かなのだった。京阪沿線に存在する(と言われている)シュレディンガーの駅。そして町。そのどれかに、出会ってみようと思った。

京阪本線。塗り潰した辺りが、全体的にモンヤリしている。

 丹波橋駅から、とりあえず何も考えずに特急に乗る。と、わずか15分弱で樟葉(くずは)駅に到着する。
 樟葉駅は特急が停車する十二神将のうち、大阪側最後の一人。つまり京都側から特急に乗った場合、最初に停車する大阪府の駅だ。ここで一度降りて、普通電車に乗り換えることにする。

 ホームで待つこと約6分、普通電車のグリーンの車体が滑り込んできた。当然のように車内はガラガラ。さっきまで乗っていた特急の混雑が嘘のようだ。
 特急の場合、丹波橋のような中間地点で乗ると、平日昼間の時間帯を除いて座れることはほぼ無い。時には30分以上立つことになる。約10分に1本のペースで走る特急に、いつもあれだけの量の乗客がひしめいているのだ。合計すると、毎日とんでもない量の京阪ユーザーが、淀屋橋~出町柳間を往復している。しかしいったいそのうちの何パーセントが「ぶっ飛ばされる駅」をマボロシではなく実存として捉えているのだろうか。僕は15年いて、未だに半分くらいの駅しか知らない。
 全ての駅に確実に停まる普通電車。今、この車両内にいるのは、僕を含めて5人程度である。

8代目おけいはん、枚方けい子は「継ぐおけいはん」である。京阪の顔と言えばおけいはん。そしてひらパー兄さんだろう。


 樟葉駅からわざわざ「普通」に乗る。普段の自分からすればあり得ない行動である。大阪の各停の駅に用があることなんて、年に何回あるのだろう。
 しかし、今この電車に乗り合わせている人達は違うのだ。沿線の、どこかの町に住んでいる人たち・通っている人たち――僕にとってはマボロシでしか無いどこかの町に、具体的で日常的な縁のある人たちなのだ。多分。
 僕にとってはマボロシの町の住人である。僕が今日こんな気まぐれを起こさなければ、永久にマボロシだった人たちである。同じ京阪沿線の民でありながら、「特急」と「各停」に世界線を違えたばかりに、透明人間にされてしまった人たちなのだ。
 彼らを透明人間にするな!
 彼らは今、確かにここにいる!
 存在している!
 彼らは実存である!
 特急ユーザーよ、
 彼らを透明人間にするな!
 世界線(バース)を超えろ!
 程なくして電車は、牧野駅に到着した。まきのえき。そういえばどことなく聞き覚えのある響きだ。字面も、見てみると「そういえばそんな駅あったかな」という気がしてくる。蜃気楼のように見えていた全体像の、比較的解像度が高い箇所という感じがする。少し迷ったが、この駅はスルーすることにした。
 さすがに樟葉からまだ一駅だし、もう少し泳がせてもいいだろう。どうせなら名前も見覚えが無いくらいの駅がいい。表示を見ると、次の駅は御殿山駅である。――ごてんやま?これには、一切の見覚えも聞き覚えも無かった。御殿山?なにそれ、そんな駅あったんだ。へぇー。

 逡巡の末、御殿山駅で降りることにした。

 電車が到着する。駅に降り立つ。ごてんやま。何度繰り返してみても、本当に耳なじみが無い。今日電車に乗らなければ確実にこの先も知らずに過ごした町だ。知らなくても15年困らなかった町だ。こうして降り立った今も、別にどっちでもいい。特に知りたいとも思わない。それが、とても丁度いいと思った。知らない町、縁のない町、まるで外国の片田舎だ。僕が囚われていたあの部屋から、この町は距離以上に遠い。
 そう思うと、少しだけ気楽な気がした。

(続く)

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