見出し画像

メモ帳#07

開田高原の記事を書いていた際に、途中で蛇足だということに気づき、即削除した文章を自分用にメモっておく。

________

1月の下旬、ほぼ徹夜の星空観望のために長野県の開田高原へ出かけた。
午後11時ごろに現地へ到着。
車を降りてすぐに、年に何度もない当たり日だと感じた。
風は全く凪いでおり、薄曇りさえない完璧な快晴。
日常と隔絶されたかのような、非現実感が主導する世界。
気温はゆうに氷点下だったが、鎌倉の中にいるかのような、静かで暖かい空気だ。
あたりには昨日か一昨日くらいに降った雪がほとんどそのまま残されていて、その静寂に一役買っていた。
流石に空は真っ暗とはいかず、遠くの街あかりが地平線の向こうから顔を出していた。それによって、ここがそうした日常と地続きの場所だとかろうじて感じられた。
地表の残雪と街あかりとが合間って、目が慣れてくると辺りは穏やかな仄明るさに包まれた。

上記の文に続いて書かれていた自分語りパートが以下の文章。


頭上では主に冬から春の星座がひしめいていて、幼い頃に本で読んだ星座にまつわる神々や英雄たちの神話を思い出させる。
それは自分の過去の記憶であるとともに、人類の過去の記憶でもある。
それらが目の前の宇宙を通して、自分の中で複雑に絡み合っている。
そういえば、自分は今、宇宙の歴史について研究しているところだ。
宇宙は自分にとってあらゆる事象の交差点のようだ。

自分の過去と現在。人類の過去と現在。宇宙の過去と現在。
この記事を書きつつ、ふと思った。
過去と現在と未来。小さいことからどちらかというと過去について考えを巡らすことが好きだった。
宇宙や神話を通して、誰もほんとのことは知らない過去の出来事について自由に妄想することが大好きだったのだ。
おそらく、自分にとって自然科学は、荒唐無稽ではなく、信じるに足る、それでいて自由な過去を妄想するためのツールだった。

一方で、大学以降は未来について考える時間が急に増えたな、と思う。
自分と人類と宇宙の未来。

物理学をきちんと学んだことで、物理学的な感覚が身についた。それに従って、宇宙に対する妄想の自由度は下がった。
宇宙の過去に何が起こったのか、大雑把にはもう答えは存在する。
宇宙は極めて物理的な存在だから、宇宙の未来が一番確定的だよ、とここ数年の自分が即答する。

それに比べて、自分と人類の未来は、多分程度の差こそあれ、自分でデザイン可能だ。
自分は、人類は、これからどんな未来を志向してどんな現在を生きていくのだろうか。
有限の過去から始まった全ての営みが、まだ確定していない未来に向かって物理法則だけを守りながら自由に伸びていく。

神話の世界が描かれた時からそう変わってはいない夜空を通して、漠然とした不安と期待に塗れた未来を嗜好し始めている自分に素直に驚きつつ、とりあえずようやくまとまった現行の研究内容をさっさと論文にまとめないといけないな、と頭の中を現実モードに切り替える。
...でも一旦この記事をまとめてからにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?