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【橋本浪漫飛行】橋本遊郭ができた背景

なぜ橋本という地に遊郭ができたのだろう。

橋本は古くから二つの顔を持った町として発展してきた。

一つは京・大坂を結ぶ河川通行の中継地・津としての商業的な顔があり、
もう一つは石清水八幡宮のお膝元として八幡宮の影響が色濃く現れた顔である。
八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く「淀川船頭歌」にも歌われたほど有名な遊郭だったが、いつ頃できたのかはよく分かっていない。

ヤレサー 八幡山から橋本見れば
ヤレー 赤い女が出て招く ヤレサーヨイ―ヨイヨー

たかつき歴史web

史料によると、江戸初期の慶安二年(1649年)正月二十日に橋本で荷物を盗んだ者があり、淀で捕えられた。この時橋本には遊女を置く家が二十軒ばかりあり、盗人がしばしば出入りするので、以後遊女を置く者が一人もいないようにと、京都所司代板倉周防守から橋本町の年寄りに申し渡しがあったようだ。

このことから、街道筋の往来はにぎやかで、遊郭も繁昌し、治安は乱れていたと推測ができる。

「京街道」「渡し船」「石清水八幡宮」「京阪電車」

この四つのキーワードが鍵を握っていると私は考える。まずは橋本遊郭ができた背景からのぞいてみることにしよう。

旧橋本遊廓俯瞰図(2011年スケッチ)



京街道

京街道とは、大坂(京橋口)―守口―枚方―淀―伏見―(大津) を結ぶ街道。
江戸時代は高麗橋までの道のりであった。

京街道

文禄三年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、文禄五年(1596年)ニ月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。

橋本は京都府八幡市にあり、大阪と京都の県境に位置し、京街道の中間時点ぐらいにある。橋本は間の宿として設けられた。
歩いて旅をしている人々の休憩には最適な場所である。
橋本が栄えた理由のひとつは、「京街道」が深く関わっていると言える。


渡し船

当時の渡し船。前に立っている女性は橋本遊郭の女性

行基が神亀二年(725年)に架橋を架けたと伝えられる。
度々洪水で流され、嘉祥三年(850年)にも架橋の記録はあるものの、11世紀には一旦廃絶。豊臣政権下で一時復活された。その後失われてからは現在に至るまで再建されていない。

橋が失われた後は1962年まで渡船が運行されていた。
淀川西岸の山崎街道と、東岸の石清水八幡宮領内への道や、河内への道とを結ぶ重要な交通機関であった。大山崎油神人が石清水八幡宮へおさめる灯油を運ぶのに大いに利用された。「灯油渡し」とも呼ぶ。

橋本には昔、橋本と大山崎を結ぶ渡し船があり、多くの人々がこの渡しを利用していた。今でも渡し場の道しるべが残っている。

船場の道しるべ(橋本)
八幡(旧橋本遊郭の地域)にある御幸橋から見える大山崎

橋はたびたび流失欠潰し、承和八年(841年)から嘉祥三年(850年)の十年間に三回も被害があった。橋の袂に掲示板があり。乗馬のまま通行することや灯火をつけたまま通行することなど禁制事項が書かれてあった。

やがて上流淀の繁栄とともに陸上交通、特に南海道方面への経路は必ずしもこのはしを必要としなくなった。

長徳元年(995年)、舟橋を作らせ、こうした渡を目指して、遊女が集まるようになる。寛仁元年(1017年)、関白道長の岩清水参詣には遊女たちがその船に群集した。

夕刻京阪電車で遊郭にくりこんだ客が、翌朝は渡し船を利用して対岸に帰って行った。老船頭さん曰く、朝が特に忙しかったらしい。
渡し船は、売春防止法が施行された翌年、昭和三十四年になくなった。

橋本 - 大山崎
橋本も山崎も昔からある古い町。
山崎は荏胡麻を扱う商人が多く、橋本は石清水八幡宮と山崎の離宮八幡宮を淀川を渡って参拝する者が多くいた。紀貫之の「土佐日記」によると大山崎に五日間宿泊したと記録があり、橋本に遊郭があったからでは、と一部で考えられている。
日記には橋本のことも記録に残っている。

運賃
一、常水 三文
一、うし馬 十文
一、三尺より四、五尺 十二文
一、うし馬 三〇
一、六尺上 三〇
  うし馬 五〇
  六尺よりうへハ洪水之節    相対之上可相渡しもの也

永禄五年(1705年)取り決めたもの。淀川の水かさを三段階に分け、人と牛馬で区別している。馬牛を運べるものであるから相当大きな船であったことが判る。

船場があった対岸の大山崎
当時の山崎渡船の中洲原

三川合流
八幡市は桂川、宇治川、木津川の三つの川の合流地点であり、淀川という大きな川になる。これを「三川合流」と呼ぶ。明治元年5月、淀川は大洪水明に見舞われ大きな被害をもたらした。これにより同年12月、大規模な工事が開始された。何度も工事を重ね、昭和五年、現在の「三川合流」が完成する。

三川合流時点0km時点の道しるべ
大正11年頃の三川合流   明治22年頃の三川合流

文学に見る橋本の渡し
江戸時代初期に作られた八幡八景のひとつに「橋本の行客」があり、これを題材として多くの歌が詠まれている。 近年では、谷崎潤一郎の「葦刈」が有名であるこのように橋本は、古くから歴史や文学に登場するところである。

橋本の渡し船や花見の様子が描かれている「淀橋本観桜図屏風」(江戸中期)
左下の山の麓が橋本「行程記」寛保元年頃


石清水八幡宮

石清水八幡宮の境内

八幡は、石清水八幡宮の門前町として発達してきた町である。
男山山中に湧き出る清泉を祀ったのがはじまりで、貞観年間(859〜876年)九州宇佐八幡宮かた神をこの地に勧請したのが石清水八幡宮の起こりである。
その後、源氏が氏神としたことから、戦勝祈願の神として八幡信仰は全国に流行し、あちこちの神社に八幡神が祀られるようになった。

石清水八幡宮裏参道

境内にはエジソン記念碑が建っている。
これは、発明王トーマス・アルバ・エジソンが八幡の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、建立された。

エジソン記念碑

離宮八幡宮
渡し船の対岸、大山崎にある離宮八幡宮。石清水八幡宮の元社にあたる神社。貞観二年(859年)国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。 

離宮八幡宮 多宝塔礎石

大山崎は日本における製油発祥地。「荏胡麻」という油がよく採れた地域で、当時は荏胡麻油の販売権を独占し、全国の神祀りの灯火に用いた。しかし幕末の「禁門の変」により焼失。明治に入り、北側の境内の土地を国鉄にささげ縮小した。

境内(左)  手水場(右上) 油売り『製油濫觴』江戸時代(右下)


京阪電車

京阪電車 橋本駅(出町柳方面改札)

1910年(明治43年)4月15日京街道沿いに大阪と京都を結ぶ電気鉄道「京阪電車」開通。 「橋本駅」は本線開通と同時に開業。 明治初期には、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍が布陣しており、 幕府軍の弾薬庫が駅東側にある西遊寺境内に現存している。 衰微していた遊郭は復興がはかられ、一時は400人を数える大遊里として繁栄。売春防止法が施行されるまでは、 橋本駅を出発する終電車が大変込んでいた、との逸話もある。
現在駅東側は山を切り崩した住宅街になっている。 京阪電気鉄道の開発が入るまでは完全な山であり、 石清水八幡宮の西側まで延々と獣道が続いていたが、麓の遊郭での諍いから遊女の自殺が絶えない地域でもあった。

昭和38年の橋本地域 現在住宅地だが家が一切なかった  左の建物は橋本変電所
淀屋橋方面改札前にある西遊寺(左) 現在の橋本変電所(右)

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