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年越しが年越しである所以。

年が変わる少し前。
「良いお年を。」「来年もよろしく。」
「今年もありがとうございました。」
なんて言葉を交わし、ゴールデンウィークと
そんなに変わらない期間の休みを経て、「来年」は始まる。


テレビの特番
スーパーで流れる年末年始特融の音楽
こたつでみかんと
年越し蕎麦とお節料理とお雑煮と、
寒い中の初詣と、運試しのおみくじで
年末年始を感じている。


実家に帰らずこたつにノートパソコンを3台並べながら、
初めてそう感じていた。
疑問に感じたことはなかったけれど
「年末年始」も私が大切にしたいと思っていた年中行事だった。
私が昔、なんとなく浸っていた「クリスマス」や
「バレンタインデー」と感覚が変わっていない。
年齢とともに関わることが少なくなってしまった
カタカナのイベントたち。
意味を持たすことができなければ
特に何も何もしなくなって、納得できていたのに、
まさか漢字の年末年始の行事にも
私はなんとなく流されているだけだった。






もし、寒波が来ていなかったら。
もし、例年通りにお正月が来ていたとしたならば。
もし、感染症対策で自粛を考えなかったら。

この感覚とは出会えてなかったのだろうと思う。
だからこそ私は今年、キチンと「年明け」ができた気がする。






1月1日はいちにち中、今年のための勉強時間に費やした。
それ以外は他に、何もできなかったけれど、
明日は明後日や来週の予定と、1月の目標を考えてみて、
書初め並のスタートダッシュを決めようと思う。

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