見出し画像

励ましのことば

月に一度、テレビディレクターの佐藤安南さんとの「トーク」をライブ配信している。メディアで長く働いてきた「伝えるプロ」として、月替わりで、コミュニケーションについての「テーマ」を決めて、話す。台本はない。その場で感じるままに話していく「ライブ感」が特長で、誰かに見てもらうというより、安南さんの「問いかけ」によって、私自身が深まることが楽しくて、回を重ねて、もう3年目となる。

今夜のテーマは「励ましのことば」だ。新年度・新生活に向けて、チャレンジ中の方も多いこの時期にと、安南さんから打診があった。私は基本的には、頼まれたこと、委ねられたことについて、物理的制約がなく、自分が責任を負える範囲のことは引き受けると決めている。今回のテーマも、信頼している安南さんの提案なので、即!OKと答えたのだけれど…

私は「ことば」で励まされるのは、実は苦手だ。「頑張って」と言われても、へそまがりなのか「わかってるわい」「もう全力でやってるから」などと、心の中で返したくなることが多い。いや、人によるのか?自分の事を、いつも見守ってくれていたり信頼できる人だったら、受け止められるだろうか?

うーん、どうだろう。信頼できる人からの「大丈夫」「出来るよ」「信じているよ」などの「ことば」で、私は励まされるか?嬉しくはある。励みにならないわけではない。でも、かえって、プレッシャーを感じてしまうかもしれない、とも思う。本当に、私はメンドクサイ。

では、私が誰かを励ましたい時には、どんな「ことば」を使うか?学び仲間や、後輩たち、子どもたちには「応援しているよ」と伝えることが多い。さらに「勝手に応援しています」も、文字メッセージではよく使う。重圧をすでに感じているだろう相手に、さらなる重しになりたくないという気持ちが「勝手に」になる。そんなことこそ、単なる自己満足の自分本位な考え方なのかもしれないけれど、「ことば」になりづらい気持ちを、何とか表したい苦肉の策だ。

でも、既にギリギリまで振り絞っている人には、かける「ことば」はない。
何かひとこと「ことば」にしてしまったら、相手を傷つけてしまうのではないか、それに自分自身の心の奥底の不安や心配が、どーっと流れ出てしまいそうで怖い。

大人になると言うことは「待つこと」を覚えることだと、いつだったか教えてもらったことがある。励ましたくても、どうしても「ことば」が見つからない時には「待つ」しかないのかもしれない。

「ことば」の無力さを感じるのは、こんな時だ。ペラペラ、ペラペラ、日頃からよく話し、よく書く私だけれど、出来ることは、相手のことを、ただただ思いながら「待つ」ってことくらいなんだろうな。頭ではわかるけど、もどかしい。

福山雅治さんの「最愛」に、こんなフレーズがある。

いつか生命の旅
終わるその時も
祈るでしょう

あなたが憧れた
「あなた」であることを
その笑顔を しあわせを

福山雅治「最愛」から抜粋

努力したからといって、全力を出し切ったからといって、すべてが上手くいくわけじゃないなんて、わかっているからこそ「あなた」がどうにかして「あなた」らしくあることを、そして、何とか笑顔で幸せでいてくれることを、ただ祈るだけしかない。

究極の励ましって、相手を思いやりながら、相手の想いが出てくることをひたすらに待ちながら、コトバにできない「想い」を「祈り」にかえるってことなのかな。


もう2年前になるが、息子の2度目の大学受験で感じたのは、どこに受かろうがどこに落ちようが、彼は彼で、何も変わらず、私のとって大切な存在だと言うこと。その「ありかた」を信じていれば、細かいことは気にせず、待つだけで何とかなると思って、特に声はかけなかった。
第一志望の大学も、2年目はひとりで出向いて、ひとりで受けて、ひとりで落ちた。そして、行く大学は一人で決めた。

私はそれを見守っただけだった。

私の「励まし」は、押し付けになっていないか?そんな問いをもちながら、誰かをどこかで、さりげなくそっと支えていられる自分でいたい。

ライブ配信(3/1)は、こちらから ※アーカイブでも視聴できます
何を話すかは、ライブにつきわかりませんが💦💦



「励まし苦手」でスタートした配信、最後の最後には「はげましの達人」になっていました・・・自分の事ってわからんですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?