大森静佳『カミーユ』一首評(「Sister on a Water」第2号、2019年)

2年後からのまえがき

歌誌「Sister on a Water」第2号のために書いた一首評です。昨年連載した「日々のクオリア」と内容的に重複する部分がありますが、こちらのほうがいくらか分量が多くなっています。

本文

樹のなかに馬の時間があるような紅葉するとき嘶(いなな)くような 大森静佳『カミーユ』

 情念が苦手だ。詩は、あらゆる顔が闇の中に没し去ってから始まるものであってほしい。「抒情(リリスム)は個人の感情表現ではない。(……)抒情があらわすのは主体のみちたりた表現ではなく、むしろその消尽なのだ」(ジャン=ミシェル・モルポワ『オルフェの声』)。たぶん、ここには何もない。辛うじて樹があるだけだ。つかのま目に入った馬は時間の中へ融解して「ような」と消えてゆき、そのいななきは耳に届くか届かぬかのうちに「ような」に消えてゆく。もしかすると、樹は紅葉などしていないのかも知れない。青葉を旺盛に繁らせているのか、それとも葉を落とした冬の裸木なのか。すべては「ような」の薄闇に紛れてしまい、視界から消えてゆく。そこにあなたはいない。わたしさえいなかったのかも知れない。ひとの情念が没したあとに、ただ言葉だけが残る。「詩人とは、言葉を介して絶えず世界に身を置きなおすひと、そしてまた、世界に言葉を置き、言葉のなかで世界を新しくするひとのことだ」(モルポワ)。言葉が生みだす闇のむこうで、きっと世界は明るく、新しい。

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