浜田到ノート――詩歌の〈架橋〉のために(『ウルトラ』10号掲載)

   
6年後からのまえがき

この文章は詩誌『ウルトラ』10号の、詩と短歌という特集に寄せたものです。この号では他にも詩人と歌人とのコラボレーションによる作品の試みなどがありました。特集の性格から、また当時「橋上の人」初稿をきっかけに鮎川信夫に関心をもっていたことから、「詩と短歌の架橋」というのがテーマになっているものの、先にnoteに上げた『率』3号の文章と同様、その当時から構想しつつもなかなか書くことができずにいた「浜田到論」のためのノートのつもりで書いたものでした。
「詩と短歌の架橋」というテーマのために隠れてしまっていますが、浜田到の文学世界における「時間性=音楽性の拒絶」と「不可視の死者たちと共存する空間(性)」という問題が主要な関心になっています。いくらか論の進め方に強引なところがあり、また生意気な言辞もはしばしに見られますが、若さゆえのことと御寛恕いただければ幸いです。

 ノート1 ささやかな〈架橋〉の試みにむけて

 いま、僕の手許には角川「短歌」誌の昭和34年6月号のコピーがあり、そしてまたこの歌人に対して一定以上の興味をもつ人であれば周知のことであろうが、この号には浜田到の本格的な歌壇デビュー作となった連作「架橋」60首が、アフォリズムの体裁をとった詩論「神の果実」とともに掲載されている。もっとも大井学による浩瀚な評伝『浜田到 歌と詩の生涯』(2007年、角川書店)が明らかにしたように、この連作は戦後短歌史の「黒衣」として陰に日に活躍した中井英夫が「短歌」誌の編集長として、浜田到から送られた膨大な歌稿「坐睡」から作者の意図とは全く離れたかたちで選歌・構成したものであり、その「架橋」という題からして、さまざまな案を破棄したのち半ば投げやりに、60首の冒頭に配された次の1首から中井によって採られたものに過ぎない。

ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

 作者の意図によらぬそうした偶然の重なりによって彼の「代表歌」として知られるようになったこの一首にしても、そして歌友たちの手で浜田到の急死ののちに刊行された唯一の歌集『架橋』にまでそのまま採用されることとなる表題にしても、そこにあまり大きな意味を見ることはかくのごとき成立事情が背景にある以上できる限り慎まれねばならないことではある。それを承知の上でなお、僕はその「架橋」なる語にいささかの重みを持たせながらひどく粗削りな、そしてごくささやかな論を試みることにしよう。

 ノート2 視力なき眼、あるいは水を湛えた球体

 できるだけ具体的な事実から始めたい。アフォリズム集「神の果実」に次の一節が含まれること。

「眼のなかに宿つた一滴の水溜。そこを向うへあなたが漕いでいたように思う。遠い少年の日。」

 このおよそ詩論からは程遠い一節に、連作「硝子街」20首(初出は角川「短歌」昭和34年8月号)から引用してきたこのような歌を添えてみる。

少女の眼に一滴の水溜宿りしを向ふへ漕ぎゐるひとに名付けよ

 題材どころか語彙をほぼ同じくする詩的散文の一節と一首の短歌と、いずれが先に制作されたかなぞという文献学的な考証に、今のところ僕の興味はないし、既に「架橋」のため中井の手に渡っていた自筆歌稿「坐睡」および次の依頼のため追って送られた二十数首のうちから再度、中井による再構成によって編まれたのが「硝子街」連作であった旨が評伝『歌と詩の生涯』に記載されているという以上のことは、今のところ知る術がない。先にアフォリズムのかたちをとっていた詩想を、急な追加制作の依頼に急かされて短歌へと作り替えたのか、逆に「坐睡」中に既に含まれていた渾身の一首が「架橋」の雑誌掲載の際に中井によって採られなかったために、何とかこの詩想を誌面に掲載したいと願った歌人の手によってアフォリズムに書き替えられたのか。その順序がいずれであったにせよ、浜田到の裡にあって眼球がもはや対象を視認するための器官ではなしに、そこにボートを浮かべて漕ぐことさえできるような、単なる水を湛えた円形ないし球状の物体として捉えなおされていたということ、それだけが重要なのである。
 人間の眼球を水の形象として把握する、その発想そのものはガストン・バシュラールが『水と夢』で言うようにごくありふれた、ともすれば詩的表現としては陳腐なものであるわけだが、それとは別に、僕は浜田到が「視力を失った眼」という題材に対して執拗な関心を寄せ、このモティーフを半ば強迫観念的に複数の作品において反復し、変奏していることを重視する。「神の果実」のなかの、

「にんげんの手で殺された一人の人間。兵士の死。(中略)凡ての秩序のイメージは、彼の死んだ眼の中にある」

といったアフォリズムはもとより、歌集『架橋』の巻頭に置かれた「現代短歌’66」に発表された長詩と反歌から成る作品「歌」からして、

螢光がともると、いつせいに壁から血がひいた。それは熱に透きとほるうすいまぶただつたのに。そのまぶたは、とほくにやすらふ蝶のけはひにさへ応へることができたのに。(中略)だのにその冬には眼をも埋めてしまふほどの雪が来た。

とか、

僕は死んだあなたの眼に
涙のうかぶわけを知る

とかいった、視力を奪われる眼球の主題系を含んでいるし、またその『架橋』を収めた『現代歌人文庫 浜田到歌集』(国文社、1980年)に収録された短篇小説ふうの散文(塚本邦雄によれば遂に発行されなかった同人誌「極」二号のために送られたもの)も、エピグラフとして掲げられた中桐雅夫の詩から採ってその表題を「盲目の墓」としている。この表題が示すように、視神経萎縮のために視力を失いつつあり、妻に養われる男「暁」――早くに母を亡くしたという記述から恐らくその人物造形にあたっては歌人自身の面影がいくらか投影されているとおぼしい――が一人娘の奈穂子との対話を経て、眠るように死んでゆくまでを描いた抒情的(に過ぎるよう)なこの散文からも同じく、浜田到という創作家における「視力を失った眼」への強い関心がうかがわれるのは勿論である。

花火見し眼、空に残して眠りおつれば妻にも吾にも齢(よはひ)は蒼し(「薔薇失神」)
扉(どあ)抜くる風の蝶となるけはひあり夕陽けむらふ室に盲ひつ(「婚姻」)
痼疾(ながやみ)の両眼を疚(や)む少女ゐて月光のときその細路(ほそじ)なやむも(同)
微笑みのあかるむ甃道 わが死にし眼を閉ざしくれむ手よ見ゆ(「田園」)
死にし眼をひらきて鳥は見上げゐぬ〈無力なりとも楡は空をささふ〉(「瞼(リーデルン)」)
ひたぶるに吾を瞶めしいまはの眼見終らざりしが閉ぢられゆけり(「架橋」)

 視力を失った眼球はもはや一個の物体、オブジェと化して、人体を構成する一器官としての「眼」ではなくなっている。そして人間の解体に伴って全体性から解き放たれた眼は、肉体の所定の位置から離れ、「瞼(リーデルン)」に見られる、

瞳(め)のみとなり病みゐし少女永眠(ねむ)るべく瞳を閉ざしたる夜を帰るも

の一首のように、無限に拡がる空間のなかに自らの位置を占めるまでになる。菱川善夫もこうした傾向について「欠落の恩寵」(『現代短歌文庫 浜田到歌集』所収)と題した論考で春日井建における肉体描写との比較の上で、浜田到の描く肉体は「生理の全体性、肉体の全体性」から「常に切断されている」と評するとともに、この歌人に特有な「視力を失った眼」の主題と関連するかたちでこう述べる。

「ところで不可視なものの働きは、死の際にこそもっとも強く発揮される。(中略)死者は眼を閉じるけれど、死んだ少女は軽々と彼の傍に立っている。ただ硝子にうつらないだけである。死は決して消滅ではない。むしろ成熟への第一歩となる」(「欠落の恩寵」)

 ここで菱川が前提としているのは先に引いたような一連の歌群であるとともに、たとえば「女は胎児によつて始めて不可視のものに触れる。盲人が木犀の香を嗅ぐように」(「神の果実」)とか「愛とは、可視的な部分では最も重なり合わず、不可視的な部分で最も重なり合う二つの円に似ている」(同)とかいったアフォリズムであるとともに、

硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ(「硝子街」)
あたへられし切れ長き眼を少女知らずしらず閉ぢゐる午後の刻やさし(「瞼(リーデルン)」)
脈細り少女ほろびしかば春の硝子にも映らずなりて吾につれそへり(同)

といった歌群でもあった。引用した歌には患者とおぼしき「少女」の姿が多く見られるが(浜田到自身も戦中に徴兵回避のため文系から医学部へ進学し、以後も内科医として生涯勤務した)、この少女の形象は同様に幼くして亡くした母や、子を産むことなく連れ添う妻などに重なってもおり、こうした女性たちがその生死を問わず同じ空間に共存しているという特異な彼の文学世界を、菱川善夫は「欠落の恩寵」に満ちた「生の頌歌と等しい力で死の頌歌となっている」と評している。歌人にとって、死者は不可視ではあっても生者と同じ空間に「存在するとは別の仕方で」(レヴィナス)存在する。それゆえ彼の文学観にとって視力の喪失は単なる障碍にとどまらず、死者が生者と共存する不可視の世界、視力に頼っていては恐らく捉えることが困難であるような空間へと飛躍する契機となっているのだ。そうした歌人の死生観は、たとえば「神の果実」の、

「わたしには生と死を含めて(恐らくは死の領域の方がずっと広範な)それが一個の限りもなく大きな果実のように感じられてくる」

といった一節にもうかがうことができる。かくして浜田到の短歌は、生者と死者とが混在し、生死をもはや今までのように不可逆のものとして単純に捉えることのできない空間を開く。この「空間」へ向けて、僕はこれから論を進めようと思う。そしてこの空間は勿論、あの〈架橋〉を待ち望んで静かに拡がっている「空間」である。

 ノート3 肉体なき器官、時間なき空間

 菱川善夫の論考を引いて少し示唆したように、浜田到の短歌において人間の肉体という全体性から遊離して空間――それは先述の通り生者と死者が混在し、視力によっては捉え得ないような「空間」なのだが――に向けて解体され、拡散されていく器官は眼だけではない。そのことはたとえば最初に引いた一首の「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻」のような表現からも理解されることと思うが、なお歌を引くことにしよう。

彷徨(さまよ)へる吾耳寒しきえがての声は少女のなかに消えいる(「薔薇失神」)
耳の少年土より剥がれ昇らむとす夕陽へつめたき風吸はれゆけば(「憐憫詩篇」)
ゆたかにて貧しき生われは欲り触れ合はしをり寒き目と耳(「火と樹と町の歌」)
すがた凪ぎの空に変へゆく農夫の死 帆のごとき耳薄光りつつ(「田園」)
耳と夕焼わが内部にて相寄りつしづかに鰭(ひれ)ふるこの空尽きず(「架橋」)
喪ひしものに夜は充つ病廊に耳にてながく立つことに堪へず(同)
噴水に鼓膜なき少年と居て夜の刻(とき)大き石皿に水あふれゆけり(「星の鋲」)

 ここには「耳」の登場する作品のみを意図的に選んだが、他にも「にくしんの手」が空に見える歌や、死んだ母に「下半身」が無いという歌など、肉体から器官や部位が解体され、遊離していくモティーフは一貫して浜田到の短歌に見られる特徴である。そのなかで「眼」に次いで敢えて「耳」を挙げたのは、やはり感覚器として、眼=視覚ほどではないものの、聴力を有する器官としてやはり、人間の外にあらわれた身体部位の中では特権的な位置付けにあると見做せることに起因する。では、その「耳」が肉体から解体され、遊離したとき、かつて「眼」が視力を失って不可視の空間が開かれたように、聴覚が失われることによってこの文学空間において何が起こるのか。
 端的に言ってしまえば、それは「空間」そのものがより純粋なかたちで前面に出てくる、ということである。空間を認識するにあたって視覚は特権的な感覚であり、眼は特権的な器官であった。これに対して耳と聴覚は――勿論、たとえば視力を失った人間が聴覚によって空間を把握するといったこともあるのだが、それとは別に――何より音に対して、さらに言えば音楽に対して特権的な器官あるいは感覚であるということができる。そしてベルクソンやジャンケレヴィッチの言を俟たずとも、音楽というのはまず何にもまして時間芸術であり、あるいは時間を表現する芸術であるのだから、浜田到の短歌において人間の肉体から「耳」が離れてしまうというのはつまり音楽を、時間を知覚することへの拒否に通じているのではなかろうか、と僕は考える。
 浜田到の短歌に「時間への拒否」を見出すのは、決してこれら耳の形象からの放恣な連想によるだけではない。彼の作品を大きく特徴付ける点に、これまで引用した歌を見てもわかるように短歌の五七五七七という定型および韻律をときには大きく逸脱し、その作品の多くが破調という形態をとって表現されていることが挙げられる。
 この破調について口をきわめて批判したのが『現代歌人文庫 浜田到歌集』に塚本邦雄が寄せた解説「晩熟未遂」であり、またそれが、かつて「詩の死」と題してパセティックな追悼文を浜田到に捧げたこともあった過去の自己を抹殺し尽くさんとする欲望に満ち満ちて、およそ途半ばにして逝去した歌友の普及版テクストに付される文章としては明らかに不適当というべき罵詈雑言によって貫徹された奇っ怪な批評文であったことはつとに知られている。ここで僕は敢えてその罵詈雑言を、こと韻律に関する箇所を選り抜いていくつか引いてみたいと思っている。

「到の歌は、一首一首痙攣し、挫け、舌を噛むやうな吃音を聞かす。まさに吃音、彼の作品を讀む時感ずるのは、明晰な思惟を持つ吃音者の美しい獨白を聽くやうな心勞混りの快感である。感動しつつどこか不愉快なのだ」(「晩熟未遂」)。
「作者は先天的に韻律音癡だつたのかと、一瞬疑ひたくなるほど、リズムは支離滅裂である。語割れや句跨りを意識して活用してゐるのではない。最早病的と言ひたいほどの調べの蹉跌が指摘できる」(同)。
「彼は誰かに甘え、かつみづからを甘やかせ、その結果として、かういふ、音癡の調べといふ罰を蒙り、延延とその罰を繰返し、時として醒め、かつてのみづからを恢復しようと苦しんでゐたのだ」(同)。

 死者に鞭打つという慣用句の恰好の用例とでも言わんばかりに浜田到の作品を徹底的にけなし、悪罵し、あまつさえ死者の作品をその作品集の巻末において「添削」までするという、どう考えても異常としか思えない塚本のこの文章は、その塚本邦雄こそが、歌壇に明確な方法意識を導入せんと孤軍奮闘し、古典和歌にとどまらず種々の歌謡にまで徹底した攻究の眼を光らせることでまさに彼が浜田到に決定的に欠けているとする「語割れや句跨り」――あるいはそれに字余りや字足らずも含まれるだろう――の意識的な活用の方途を探り、戦後短歌を現代詩や俳句と区別しうる短歌の独自性としての音韻面から復興させ、昭和末年から平成初年のニューウェーヴ以降にまで受け継がれる新たな韻律の大成者となった人物であったことを思い見れば、あるいはある程度まで納得のいくものかも知れない。だが短歌というジャンルの固有性を現代詩や俳句との差別化によって追求する塚本の態度が結局のところ広義のモダニズムの範疇からはみ出すことのない観念に基づくものであり、彼がその語彙と方法論のために「前衛」を務めざるを得なかった歌壇という悪場所の有する「後衛」性を暴くに過ぎないなどとこちらも悪罵の一つも飛ばしてみたくなる。
 先に書いたように、塚本によって痛罵された浜田到における破調の多用ないし濫用は彼にとって音楽性の拒否、時間性の拒否という意味を有していたというのが僕の一貫した主張である。

「作者はただの一度でもこの一首を口遊(くちずさ)んでみただらうか。否、彼は聲に出して誦するのが怖かつたに相違ない。歌ひつ放し、書き捨てのままで、恐る恐る公表し、あとは耳と眼に蓋をして顫へてゐたのだ」(「晩熟未遂」)

という塚本の痛罵は、その意味で僕の論旨を逆照射してくれる光源ということもできる。「耳と眼」とはまさにこれまで僕が挙げてきた歌において、浜田到が人体の全体性から遊離させ、解体させた器官の二つであったのは言うまでもなく、それこそが視覚と聴覚を拒否するという彼の短歌の、すなわち彼の詩学の第一原理であったはずなのである。僕はここで塚本の悪罵に対置して、かつて同人誌『率』三号で浜田到について書いた文章を以下に一段落にわたって再掲しよう。

 死者と生者とが混在する恩寵に満たされた空間を希求する彼にあっては、死の不可逆性を担保し、生者と死者とを引き裂いてしまう時間性は何より忌避せらるべきものであった。「「同時」「定時」「暫時」……等「時」にからまる一切の観念のない場所――「空間」には確かに生を慰撫し落着かす不死性がある。」(「神の果実」)到は「神の果実」に「とにかく敵は時間である。」という谷川雁の言葉を引用している。ゆえに彼の歌にあっては時間がスムーズに流れてしまうことのないよう、「抵抗」としての破調が多用される。到の歌は滑らかに口ずさまれてはいけないのだ。愛唱されてはいけないのだ。「硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ」のような例外はあるにせよ、彼における破調は塚本の言うような「吃音」とは明らかに性質を異にする。それはたとえば吃音を方法論としてあるワン・フレーズを次々に違った語彙へと変化させてゆき、そこに不思議なパッションを込めるゲラシム・ルカの「ベゲマン・ポエティク」のような作風と比べてみれば一目瞭然だろう。吃音という方法論を最大限に活かすため朗読を重視したルカに対して、到は「神の果実」にこう書きつける。「「時間」の対語は「空間」であるより「持続性」である。そしてその担い手は主体と沈黙である。」彼の歌は饒舌であってはならない。僕らに沈黙を強いる歌なのである。僕らは彼の歌をうたうことを許されない。うたおうとすれば歌はたちまちその裡に秘めた「抵抗」を僕らの舌の上で露わにし、朗読の時間性に空間的な欠落をもちこみ、声をつかえさせ、呼吸を乱す。その躓きこそが僕らの前に到の文学空間を開き、死者というメタフィジックかつ不可視の領域へのまなざしを開いてくれるのである。

 この2年ほど前に書かれた、いささかファナティックな断言調に満ちた文章は読むだけで気恥ずかしさを覚えざるを得ないが、ともあれ浜田到の短歌における破調が「時間」に対する抵抗であり、それに関連して彼の短歌はむしろ空間性を志向し、愛唱性に通じるような韻律の快さを拒絶することで成り立っているという考えは、今も変わることがない。付け加えておけばこの「抵抗」という用語は、評伝『歌と詩の生涯』にあるように浜田到がノートに書きつけていたという「破調即抵抗」なる語に由来している。
 かくのごとき視覚と聴覚への拒否は、視覚についていえばあるいは子規が欧米の絵画理論から出発して近代短歌俳句の根本原理として立ち上げた写生や自然主義への「抵抗」という意味を持ちえたのかも知れず、また破調に見られるような聴覚=音楽性への「抵抗」は、現代詩と定型詩とのあいだの大きな分水嶺となった「愛唱性の拒否」へと浜田到を近付けることで、彼をして詩歌のあいだの深い間隙に架けられた橋たらしめんとしたという、重大な意義を有するのではないか。前者についてはあまりに短歌史的な広い視座にまたがった問題となるため詳述はなしえないわけであるが、後者については更なる論を展開するとまではいかなくとも、ここに続いて少しく註釈を加えておきたく思う。

 ノート4 橋ヲ架ケル――「架橋」と「橋上の人」

 浜田到という新人を歌壇にデビューさせるにあたり、彼を売り込むためプロデューサー役だった中井英夫がとった戦略の一つが、既に浜田遺太郎の筆名で昭和27年から「詩学」に詩作を投稿し、懸賞作品にまで入選していたこの歌人の作品に添えて、有力な詩人による批評文を掲載することだった。恐らくは浜田到に先立つ春日井建の売り出しに際して三島由紀夫や澁澤龍彦の文章を強力な援軍として掲載することで成功した中井の経験から採られたのであろうそのプランは、「短歌」昭和34年8月号で連作「硝子街」とともに発表された木原孝一の評論「詩・短歌・メタフィジク」として実現することになったわけであり、浜田到=遺太郎が投稿していた「詩学」の編集長であった木原が起用されたのははたから見れば当然のことのようにも思われるが、評伝『歌と詩の生涯』に引かれた中井英夫からの書簡によると、彼は「神の果実」に引かれていた谷川雁をはじめ、鮎川信夫や村野四郎にも依頼を出して断られたうえで木原に原稿を依頼していたことがわかる。このうち村野四郎については、浜田到の連作「田園」が掲載された「短歌」昭和35年6月号に「前衛と変革」という題で浜田到・塚本邦雄・前登志夫といった当時の新進歌人たちを取り上げて批評文を――必ずしも好意的なものではなく、当時「前衛短歌」と称された作者や作品たちに対する態度も冷やかではあるが――寄せているものの、ここでは遂に「短歌」誌に浜田到論を寄せるに到らなかったもう一人の詩人、鮎川信夫のことに少しだけ触れておきたいのである。
 ここまで論じてきたように、浜田到の短歌には時間性=音楽性の拒否として題材の面では「肉体から切り離された耳」が、技法の面では「抵抗」としての破調がそれぞれ見られるわけだが、こうした愛唱されることを拒むような――塚本邦雄の罵倒を敢えて借りるなら「聲に出して誦する」ことを拒み「耳と眼に蓋をして顫へてゐ」ることを強いるような彼の作品の特性は、鮎川信夫が自己の詩を現代詩として立ち上げるうえで詩論「われわれの心にとつて詩とは何であるか」(『詩と詩論』昭和二九年七月号)において「ぼくたちの詩の大部分は読む詩であつて、愛唱するといつた詩ではありません」と愛唱性を拒否してみせたことと通底して、きわめて同時代的な思想の傾向が認められないだろうか。

「ぼくたちの詩が書く詩であるということ、読まれるけれど、まる覚えに記憶されるものではないということ、これは詩としては、実に困難で、かつ苛酷な形式なのです。はたして、どれだけの詩人が、本当の意味でこの形式に、最後まで耐えられるか大いに疑問だと思います。同じ場所にとどまつて、歌になることを許さないのですから」

と言い、

「ぼくたちは、歌という形につて追憶にとどまるよりも、むしろ忘れるために書くのだとも言えます」

と言うこの詩論がもつ意義の重さについて、詳しいことは宮崎真素美『鮎川信夫研究―精神の架橋―』(日本図書センター、2002年)などを参照されたいが、ともあれ、直接的には三好達治に代表されるような「戦前」の詩人を批判することで戦後詩=現代詩を屹立させるという狙いのもとに書かれたこの詩論は、作品が歌になりきってしまうことを拒み、愛唱性を拒否しているという点において、歌の韻律という「音楽性」に破調によって抵抗することでやはり愛唱性を拒否し、塚本邦雄とは別なかたちで戦後短歌を構築せんとした浜田到の詩学と明らかに同質の発想のもとにある。短歌というジャンルに語彙や思想のレベルで現代詩と共通の成果――彼の出自は英仏の象徴主義からモダニズム文学までの強い影響下にある――を取り込みつつも、むしろ韻律においては限りなく古典和歌や歌謡といった「歌」へと回帰することで愛唱する詩、歌われる詩を目指すことである地点において現代詩から決別したところに短歌というジャンルの独立性を保持しようとした塚本の方法論に対して、浜田到はその用語こそかなりの部分をリルケに負い、塚本邦雄からは「通俗的」「少女趣味」と罵倒されていたとしても、抵抗としての破調を駆使して愛唱性を拒否することで、音韻の面で現代詩への接近を試み、戦後になってますます深さを増した詩歌のあいだの溝に〈架橋〉を試みたということができるのである。塚本はある地点において詩歌のあいだの架橋を拒み、愛唱性という一点において短歌というジャンルの独立を保とうとしたわけであるが、そのことは短歌の愛唱性は読者による引用を経て、恐らくは遂に勅撰和歌集や歌会始に代表されるような天皇制につながっているという批判的なまなざしを、彼が残念ながら得られなかったことを示している。それに対して浜田到の歌作は、塚本邦雄から「音癡」「吃音」と罵倒されたように「歌」としての完成度を犠牲にしてまでも、短歌と現代詩のあいだの不幸な断崖に架橋――思えばこれは「架ケラレタ橋」という以上に帰り点によって「橋ヲ架ケル」と読み下されるべき熟語である――を試みたという点で、現代の僕たちが引き継ぐべき問題意識を有しているといえるだろう。
 この試みが愛唱性=時間に対する「空間」の詩学とでも呼ぶべき作歌理念に基づいたものであったことを思うとき、僕は「神の果実」のなかに浜田到が寄せた、まさに「空間」についての一つのアフォリズムを思い出す。それは「架橋」の歌人を、長詩「橋上の人」を戦中から戦後にかけて三度にわたり改作するなかで自己の詩学――それはとりもなおさず戦後詩、現代詩の出発点の一つと目されるべきものであるわけだが――を練り上げていった詩人・鮎川信夫とつなぐ「架け橋」というに相応しいものであった。

崖の美しさは、そこから先もはや眼に見えない架橋を予感せずに居られぬ、空間のもつ暈いの美しさである。丁度経験の果てまで行き尽した言葉のように。

 こうして浜田到は冒頭に引いた一首にあるように、「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に」あって、詩歌のあいだの断絶という空間にこそ希望を見出し、いまだ不可視の〈橋ヲ架ケル〉ため「高き架橋をわたりはじめ」るのである。その架橋はいまだ不可視であり、恐らくはその目眩のする空間を渡り終える前に、つまり詩歌の〈架橋〉という彼なりのプログラムが完遂される前に浜田到はその短い人生を終えてしまったのであるが、この「橋上の人」の跡を追うことこそが現代詩と短歌のあいだにいまだ残存する断崖を超えるための道筋であるように、僕には見えるのである。

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