いわゆる「進歩的文化人」たちのWikipediaページについて

タイトルの通り、いわゆる「進歩的文化人」とみなされる作家・評論家・学者などのWikipediaページに関して、思うところがあったので記事にします。具体的に言えば、その人物の功績以上に、戦前戦中と戦後の言動の不一致や旧社会主義国およびその指導者への親和性の高さなど、糾弾の対象となるような記述が(恐らく右派のウィキペディアンによって)いささか不当なかたちで強調されていることです。
現状、ある人物について調べようとすればまず出てくるのがWikipediaであり、そのとき読者に功績や業績以上にマイナスイメージを植え付けるような記述を大きく取り上げているのは、あまりフェアではないというか、中立性を欠くことのように思います。また、それらの記述には出典の欠如や原典に当たっていない可能性など、単純にWikipediaに書き込むにあたって不適切と思われる内容も少なくありません。
以下に取り上げる「進歩的文化人」たちの記事以外にも、こうしたWikipediaにおけるネガティブキャンペーンがおこなわれている例は多数あると思われます。それらの一部はあくまで編集ルールに則った記述なのかもしれませんが、もしこの記事をご覧になったウィキペディアンの方がおられましたら、これらの問題について御一考いただければ幸いです。(僕自身はコード?プログラミング?に弱くてWikipediaの記事を編集したり、例の「要出典」「誰によって?」「独自研究?」「出典ページ数不足」などの指摘をしたりすることができないもので……。)

出隆、清水幾太郎らの場合〜内閣調査室の関与〜

ここに挙げる「進歩的文化人」「進歩的知識人」たちはみな、『学者先生戦前戦後言質録』(全貌社、1954(年)という本からWikipediaページにその「変節」ぶりが記述されています。それも通常の引用ではなく、Quotation機能を使った(Wikipediaではあまり目にすることのない)人目を引きやすい引用形式になっています。なおこの本からの引用には基本的にすべてページ数が明記されていません。
この『学者先生戦前戦後言質録』は、Wikipedia記事上ではせいぜい「暴露本」としか書かれていませんが、志垣民郎『内閣調査室秘録』(文春新書、2019年)の記述によれば、当時の吉田茂政権のもと反共工作のため活動を始めた内閣調査室(現・内閣情報調査室。通称「内調」)によって書かれた、いわば政府機関による反共工作のプロパガンダ的出版物です。引用するならそのことも併せて記述しなければフェアでないというか、百科事典としての中立性に欠けるでしょう。この本はもともと反共出版社・全貌社の雑誌「全貌」に連載されたものを、同社から一冊にまとめて刊行されたものです。さらに1957年になって『進歩的文化人──学者先生戦前戦後言質録』として増補版が出されました(なぜかWikipediaにはこの増補版による引用はなく、増補版で追加された吉野源三郎阿部知二三枝博音青野季吉らには戦中戦後の言行不一致を糾弾する引用がない。恐らくは『学者先生戦前戦後言質録』からの引用をおこなっていたのは一人の右派ウィキペディアンで、増補版は所有していなかったものと思われる)。
その他『内閣調査室秘録』には吉田茂首相をはじめ、大達茂雄文相、緒方竹虎副総理といった当時の政治権力の中枢にあった面々から好意的な反応を受けたことが、子供の自慢話のように列挙されています。(その他、中央公論の粕谷一希や嶋中鵬二、哲学者の上山春平らからも褒められたと自慢げに書いてあります。「内調」の世論工作はメディアや学界にも影響力をもたらしたと言っていいでしょう。)政界と一部官界が結託して世論誘導のため書かれた書籍であることが、この『言質録』を引用するに際して一切触れられていないのには意図的なものを感じざるを得ません。
結局のところこの本は、ある時期、ときの政権の息のかかった人びとによって世論工作のため書かれた、極めて政治的に偏ったものであり、これを出典とする記述だけを大きく取り上げたWikipedia記事は公平性・中立性に欠けるものと考えます。
以下に、この本からの引用がWikipedia記事に含まれる「進歩的文化人」たちを列挙します。特記すべき点がある人物記事についてはカッコ書きで補足しました。

出隆(※出の戦中戦後の言動については『学者先生戦前戦後言質録』1冊のみを典拠としており、不充分。また安岡正篤による出隆への罵倒の言葉も記されているが、こちらは出典がまったく明かされていない。「要出典」の記載が必要であろう。)
清水幾太郎(※政治的転向が多く評価の定まらない人物。60年安保の頃は左派知識人だったが、その後は核武装論など「右旋回」していくことになる。他に問題点として記事中にも記載されている通り典拠が竹内洋『革新幻想の戦後史』一冊のみ。Quotation機能によって強調されている引用もすべて竹内著からの孫引き。他に庄司武史『清水幾太郎:経験、この人間的なるもの』のような専門的研究者による最新の評伝も存在するが、そちらはいっさい参照されていない。)
末川博
宗像誠也(※Wikipedia記事では戦中戦後の発言については触れられているものの『言質録』からの直接的な引用はなく、むしろ戦争に加担したことを隠蔽することなく反省し続けた点を評価する後年の見解が記されている。)
柳田賢十郎(※Wikipedia記事では西田哲学を捨ててマルクス主義に走った、という紋切り型の批判がなされているが、柳田の自伝『わが思想の遍歴』青木書店、1972年にはそう単純な思想的転回ではなかったことが記されている。もちろん当人による自伝をどこまで信用するかという問題はあるが。)
深尾須磨子(※この記事のみQuotation機能を使わず普通の引用形式になっており、ページ数も明示されている。『言質録』引用記事としては珍しい事例。)
高倉輝(※「タカクラ・テル」。右派による『言質録』からの引用も問題だが、三木清が高倉をかくまったため治安維持法違反に問われ投獄、前後まもなく劣悪極まりない環境で獄死した件について注釈でわずかに触れられているだけなのも、三木の知識人としての業績の大きさを考え合わせると問題かとおもわれる。)
長田新

以上、目についたものだけ取り上げてみましたが、他にも『内閣調査室秘録』によると多数の知識人・文化人の名前が挙げられているため、それらの人びとを扱った記事にも『言質録』からの、Quotation機能により強調された引用があるかも知れません。『秘録』のうち進歩的文化人攻撃に関する章は無料試し読みで参照できるので、有志は確認のうえ然るべき対応を取っていただきたい次第です。(以上2021年6月25日19時閲覧。)

中島健蔵、平野謙らの場合〜中河与一ブラックリスト事件〜

中島健蔵については、僕の個人的なことを話せば、最初にWikipedia記事を見たとき業績より強調されて「中河与一ブラックリスト事件」が独立した項目として立てられているので、そちらの印象が圧倒的に強かったです。岩波新書『昭和時代』や全5巻におよぶ大著『回想の文学』による、幅広い文学者たちとの交遊や彼らそれぞれの時局に対する身の処し方、また日本における本格的なフランス文学紹介ことはじめに関する貴重な証言などの業績はWikipedia記事からはうかがい知ることができず、実際に彼の著作を読んで大きく印象が変わりました。中島の業績としては、

ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。(2021年6月25日19:30閲覧)

とあるのみで、あとは生涯の記述と幅広い活動の一環(中島は妻の父親が医師だった関係から野兎病についての研究などもおこなった)の記述ののち、その活動のなかでは余技ないし趣味の領域に入るであろう「中国切手のコレクター」としての活動に1項目を割いたうえで、もう1項目として戦中の言動にかかわる「中河与一ブラックリスト事件」が立てられています。以下、その項目全文を引用します(2021年6月25日19:30閲覧)。

戦時中、作家の中河与一が、左翼的な文学者の「ブラックリスト」を警察に提出したという噂が戦後流れた。これも一因となって中河は文壇からパージされたと言われる。しかしこれは平野謙によるデマで、自身の戦争協力を隠蔽するための工作だったと言われ、中島もこれに加担していた疑いが濃い。戦後の、戦争責任追及行為は、中島の戦争協力を隠すためだったとする見方が今では有力である(森下節『ひとりぽっちの闘い-中河与一の光と影』)

「噂が流れた」「と言われる」「と言われ、」「疑いが濃い」と記述のほとんどが憶測の域を出ないことを示しています。何より「見方が今では有力である」という記述も含めて、『ひとりぼっちの闘い』という書籍1冊(なおこの書籍は国会図書館にも収蔵されていないようで検索に引っかからない)だけを典拠としており、その出典すらWikipediaのルールに従わないかたちで提示されるのみで、記事としてはきわめて不充分なものではないかと思われます。
またこの引用では平野謙についても触れられていますが、平野のWikipedia記事はもう少し複雑です。こちらの場合は中島健蔵と違い、「生涯」の項目に数々の文学論争などが記述され、それなりに充実した記事になっているのですが、そのなかで異質なのが戦時中の行状について書かれた以下の箇所です(以下引用はすべて2021年6月25日19:30閲覧)。

戦時中は「身は売っても芸は売らぬ」をひそかな志としていたが、1941年1月から1943年6月まで情報局に月給100円の常勤嘱託として勤務し[7]、演説の原稿などの起草をした。1943年5月、中央公論社に移り、嘱託として勤務[8]。また文学報国会評論随筆部会の幹事を務め、文化学院に講師として勤めた[8]。

この箇所の出典のうち、[8]は平野自身が戦後に書いた文章ですが(恐らく全集未収録。後述の杉野要吉の著書からの孫引きか?)、[7]は中島健蔵のときも出てきた『ひとりぼっちの闘い』が出典で(この記事では書誌情報や引用元のページ数などきちんと示されていますが)、誰か「中河与一ブラックリスト事件」に強い関心をもつ一人のユーザーが編集しているのではないかと思われます。さらに上に引用した平野の戦時中の行状については、

戦後になって、戦時中左翼的な文学者の「ブラックリスト」を中河与一が警察に提出したという噂が流れたことが引き金となり、中河は文壇からパージされたと言われる。しかしこれは平野によるデマであり、自分の戦争協力行為を隠蔽するための工作とする見方が有力である(森下節『ひとりぽっちの闘い-中河与一の光と影』)。
ほかにも杉野要吉(『ある批評家の肖像 平野謙の〈戦中・戦後〉』勉誠出版)や江藤淳(『昭和の文人』)が、平野の隠蔽工作を指摘してきたが、平野の弟子に当たる中山和子らは沈黙を守っている。
また、内閣情報部時代の上司の井上司朗からは、大東亜戦争を手放しで賛美した文章(『婦人朝日』1942年8月号、『現代文学』1942年3月号など)を意図的に自分の全集(新潮社)から外したとして非難されている[13]。

と、ここでも『ひとりぼっちの闘い』を中心に、引用ルールに則らない不充分な形式で杉野要吉江藤淳らの主張が紹介されています。平野謙の戦争協力問題については今後、より中立的な立場から検証がなされることと思いますが、少なくとも平野のWikipedia記事におけるこの箇所はいささか私怨を思わせる、かつ編集ルールを把握しないまま性急に書かれたものと思わざるを得ません。

中野重治の場合〜徴兵の欠落と志賀直哉問題〜

中野重治はさすがに名の知れた大作家ということもあり業績に関する記述は充実しているのですが、やはり戦時中の言動について非難するような書きぶりの箇所があります。(以下、引用箇所はすべて2021年6月25日20:00閲覧。)

太平洋戦争開始時、中野は父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。中野は戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴(左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。積極的に戦争に加担する作品を発表したり、戦争を煽る運動を行ったりはしなかったものの、戦争に反対する活動も行わないまま学徒出陣で多くの学生が学半ばで特攻・玉砕していく様子を尻目に終戦を迎えた。この時期の手紙が『愛しき者へ』上下、日記が『敗戦前日記』として各中央公論社で、また中野の画文集『中野重治の画帖』(新潮社、1995年)が刊行されている。

この箇所に関しては出典を示す脚注がまったく付されていません。「平野謙によって暴露された」具体的な媒体については書誌情報など一切触れられていませんし、「戦争に反対する活動も行わないまま学徒出陣で多くの学生が学半ばで特攻・玉砕していく様子を尻目に終戦を迎えた。」という中野の態度を非難するような記述に関しては、中野もまた徴兵されていたという事実がすっぽり抜け落ちています。中野重治の経歴を記述するにあたっては、当然軍歴も含まれるべきかと思いますが、それが抜け落ちているのは意図的な作為がはたらいているものと考えられます。(そもそも中野重治の記事については、そもそも記事の大半を占める「経歴」にひとつも脚注で出典が示されておらず、どのような文献に拠って書かれたのかわからないという問題があるのですが。)
また戦後の、中野重治(および新日本文学会)と志賀直哉の関係についても、

1945年(昭和20年)3月、世田谷区新町に住んでいた志賀直哉を訪ね、その後も交流があった。戦後、「新日本文学会」を結成すると、中野の人柄に好感を持っていた直哉も賛助会員となる。翌年3月中野は『学芸封鎖の悪令』(読売新聞)で「国民は飢ゑてゐて天皇とその一家は肥え太っている」と皇室を、『安倍さんの「さん」』(読売報知)では文部大臣安倍能成を批判する。これを読んだ直哉は「何か復しう心のやうなものも感じられ兎に角甚だ不純な印象」と手紙に書き文学会を脱会。直哉に畏敬の念を抱いていた中野は徳永直と手紙で慰留するが、これ以後直哉が新日本文学会に関わることはなかった[2]。

という文面だけが、「エピソード」という独立した項目を立ててまで記述されています。出典として示されている[2]は阿川弘之『志賀直哉 下』とのことで、志賀の弟子だった阿川の記述はある程度まで正しいとみてよいでしょうが、阿川の政治的立場からのバイアスがかかっている可能性は大いにあります。また、具体的に志賀の不興を買ったとされる2篇の文章についても、新聞紙面を直接(マイクロフィルムなどで)確認したわけではなく、阿川著からの孫引きのようです。脱会を申し入れたという志賀の手紙も、どこが出典になるのか、誰が所有・保管していたもので、阿川はいつ閲覧したのかといった背景が示されていません(中野と徳永による慰留の手紙も同様)。新日本文学会の立ち上げにあたって何とか「小説の神様」志賀直哉を身内に引き入れておきたかったという、中野重治の姿がいささか戯画化して描かれているような印象も受けます(第三者が客観的に見ればあくまで記事としての中立は保たれていると判断される記述で、僕が中野の愛読者ゆえの偏った見方に過ぎないのかも知れませんが)。せめて「エピソード」という項目が立てられたからには、中野には志賀以外にも堀辰雄はじめ多くの文学者・国会議員との関係があった以上、きちんとした伝記的資料を出典としてそうしたエピソード(たとえば佐々木基一が述懐している中野のネクタイ嫌いなど)もまた追記されていくことを望んでやみません。

渡辺一夫の場合〜共産圏への同情〜

渡辺一夫に関してはこれまでの「進歩的文化人」のように戦中戦後の「転向」について書かれているわけではありません。渡辺は戦中、戦争を憎み、軍部や財閥・政府を呪うような日記を、官憲の目から逃れるためにフランス語でつけていました(のち邦訳が刊行されている)。
渡辺の場合、Wikipedia記事に書かれているネガティブキャンペーン的な話題は、戦後の共産圏に対する同情ないし親近感を糾弾するものです。「その他」として立てられた項目1個ぶんを以下に全文引用します。(2021年6月25日23:00閲覧)

息子渡辺格(動物評論家)の回想によれば、共産主義を信奉しており、共産主義諸国の独裁制についても「資本主義国からの介入を防ぐためにやむをえない処置」と考え、後年、共産主義国に関する種々の情報を入手してからも、「ソヴィエト・ロシヤの人間化を切に願っている」(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」1951年)と述べつつ、共産主義には好意的であり続けたといわれる[3]。

ここでは(いわば冷戦終結後の「後出しジャンケン」じみた感じで)渡辺の共産圏へのシンパ的な心情が、子息の回想として記されています。とはいえ渡辺のエッセイの代表作ともいえる「寛容は〜」の引用は出典の書誌情報などが示されておらず引用として不充分ですし、[3]として示された注の内容を確認すると、渡辺格の文章をそのまま引用しているわけではないらしいことがわかります。[3]の脚注には、

「父の政治観」『ももんが』2002年12月号所収。平川祐弘「幻想振りまいた仏文の知的群像」2011年11月24日付産経新聞

とあります。渡辺格の回想とされる記述は、平川祐弘(芳賀徹・小堀桂一郎と並んで東大比較文学科で「御三家」といわれた右派論客のひとり)が産経新聞に寄せた文章からの孫引きということになります(実際、以下のサイトに転載された平川の文章を確認すると平川が引用した箇所にしか言及がない)。そのことは記事の「〜といわれる」という曖昧にぼかした記述からもうかがわれます。さらにこの平川の文章タイトルにはリンクが付されていて、リンクを踏むと「公益財団法人 国家基本問題研究所」なる団体のWebサイトに転載された「幻想振りまいた仏文の知的群像」という、いくぶん往年の東大仏文科関係者への中傷めいた随筆らしきものが出てきます。ここから推察するに記事の該当箇所執筆者は産経新聞の記事に(縮刷版やマイクロフィルム含め)直接当たったわけではなく、新聞記事と同じ内容のものか不確かなWebサイトへの転載を典拠としたことになります。
何よりこれもまた百科事典としての中立性を重んじるべきWikipediaには似つかわしくない内容ではないでしょうか。

野間宏の場合〜スターリン賛美問題〜

野間宏に関しても政治的糾弾は渡辺一夫に対するものに近く、共産圏の独裁的指導者への親和性をあげつらったものです。まず「経歴」の項目に、

1954年、詩集『スターリン讃歌』編集に参加。同書のためにスターリンを賛美した詩『星の歩み』『スターリン』を執筆。

と記載し、共産圏の独裁者であったスターリンへの追随を非難したうえで、「人物」の項目でそれら作品がのちの全集・著作集のたぐいに収録されなかったことを暗に糾弾するような記述がなされています。(引用は上下いずれも2021年6月25日23:30閲覧)

全22巻の『野間宏全集』(筑摩書房)、全14巻『野間宏作品集』(岩波書店)があるが、スターリンを賛美した作品は収録されなかったという。

該当作が『野間宏全集』や『野間宏著作集』に収録されなかったことを非難している点は上述した平野謙の場合と似ており、また全集や著作集はいずれも野間の存命中に出たため収録作品に恣意的な選択があったことは確かだろうと思われますが、一方で『全集』『著作集』ともに政治的な事柄にかかわらず収録されなかった文章や著書も少なくなく、単純にきわめて不完全な全集・著作集であることもまた考慮に入れておかなくてはなりません。また詩集『スターリン賛歌』については書誌情報など出典が一切示されておらず、全集・著作集に関しても「〜という」の記述から実際に書籍に当たったわけではないことがうかがわれます。この点については百科事典としてやや不充分で、いささか勇み足的な記述といえるのではないでしょうか。
また、当時の野間が置かれていた政治的立場やスターリン批判の時期なども考え合わせれば、これも渡辺一夫の場合と同じように、後世からかつての言行を裁く「後出しジャンケン」的な記述だといえるでしょう。加えて渡辺の場合は信憑性の確かでない肉親の回想、しかも孫引きに拠っており、また野間の場合は『スターリン賛歌』関連の出典が一切示されていないことなど、調査が不充分な記述であることは確かです。

ただし野間に関しては、同じ「人物」の欄に記載された若き日の性犯罪(痴漢、窃視、露出、尾行など)や河出書房の女性編集者・田辺園子に強引に関係を迫った件に関しては、決して許されるものではないと思われ、これらの記述に関してはたとえ野間を貶めるため書き込まれたものだとしても、事実と認められるのであれば残すのが妥当と考えます。
(※ただし野間の若き日の性犯罪に関しては直接の記載があるとされる『作家の戦中日記』に当たったわけではなく、田辺園子『伝説の編集者坂本一亀とその時代』の記述に拠っている。この本は、野間の『戦中日記』にそうした事柄が記載されていたことに触れるのみで、具体的な箇所を引用しているわけではないので、このWikipedia記事の記述は孫引きですらなく、その点で原典に当たって確認する必要はあるものと思われる。)

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