絵恋ちゃん作詞曲で好きなものベスト5

絵恋ちゃんの曲というと、作曲家の中村友則さんが作詞した楽曲がキャッチーなためライブなどでも披露されやすく、また人気も高いわけですが、今回は絵恋ちゃん自身が作詞した曲の中から僕個人が特に好きなものを何曲か選んで、好きな理由とか感想とか書いたりします。オタク歴がきわめて浅いのでトンチンカンなことを書いてしまうかも知れませんが御寛恕くださいませ。

5位:コインランドリー

こんな歌詞、こんな曲です。
洗濯物がたまってしまったのでコインランドリーに行こう、というだけの歌なのですが、まず洗濯物がたまってしまった部屋の描写がすごい。

洗濯カゴは埋まってる
洗濯機どこだかわかんねえ!
上手も下手も布タウン

「上手も下手も布タウン」、このセンスに憧れます。部屋が服で埋まっているのは僕も似たようなものなので(もっとも僕の場合はどんどん太っていくため次々に服を買い替えなくてはいけないから部屋中が服だらけになるのですが)よくわかります。限られた音数のなかで端的に状況を言い表すテクニック、真似したいものです。
限られた音数といえば、サビの部分もうまい。「サントリーサントリーサントリー水うまい」とか「ダイナソーダイナソーダイナソー観る」とか、「ランドリー」と韻を踏んだ言葉の繰り返しのあとの短い音数で何かしらおもしろいことを言えているのがすごい。特に3番の、

インド人インド人インド人カレーうまい
アンドリューアンドリューアンドリューすごい他人
アンドリューアンドリューアンドリュー二度見
コインランドリーランドリーランドリー行こう!

のところとか、アンドリューが2回出てきたと思ったら1回目は「すごい他人」だったのが2回目は「二度見」になっているところとか、初めて「絵恋ちゃんと楽器」のアルバム『ERERGY』で聴いたときから思わず笑ってしまってとても好きな一曲です。誰なんだアンドリュー。

4位:デマの実

こんな曲です(歌詞はネット上にないので、写真集『地下アイドルの絵恋ちゃん』より引用)。
5位の「コインランドリー」は楽しい曲でしたが、ここからは少し重めの曲が続きます。覚悟してください。
まず歌い出しの歌詞がとてもいい。グッとくる。

あの頃はよかったな なんてことなかった人生
どこを切り取ってみても ダメダメだった気さえする

もう共感しかありません。思い返せば幼児のころはいつも外界のものごとにおびえていたし、小学校にあがれば給食を残してはいけなかったりクラスでいじめられたりツラいことが増えるし、中学に進んでも高校に進んでも大学でも友達ができないとか勉強についていけないとか運動ができないとか嫌なことはやっぱりたくさんあって、まして大人になってからは嫌なこと・つらいことばかり。とにかく人生のどの時点でも「あの頃はよかったな」なんて思える時期はないのです。
この曲は恋愛ソングらしいところがあって、たとえば、

夢のためここに来た みんなと温度合わなくて
前髪のびて気になる デマの木のびて 君になる

など、周りと馴染めずうまくやっていけない人生の不遇を嘆くにしても、そこには「君」が登場します。しかし恋愛はうまくいっていないらしく「また人を好きになる 最悪だったはずなのに」のような歌詞があり、最後は「あの頃はよかったな 君のことちょっと思い出す」という詞で終わります。「君」とは縁遠くなってしまったのでしょう。僕も遠いところへ行ってしまった昔の恋人がいるので気持ちはなんとなくわかるような気がします。
そしてこの曲がすごいのはサビの部分。この箇所は絵恋ちゃんの楽曲の多くを作曲し、また作詞も手がける中村友則さんも褒めていました

右手がパーで わたしだけがパーで
ダメにしてしまう いつも
かしこくないな かしこくないじわる

「グーチョキパーでなにつくろう」という手遊び歌を引用しつつ、そこから「わたしだけがパーで」への飛躍に無理がなく、しかしきちんと飛躍しただけの衝撃はある。「みんなと一緒のことができない」という自己嫌悪をとてもよくあらわした歌詞だと思います。ちなみに説明するまでもないかも知れませんが、「かしこくないじわる」は「かしこくない/じわる」ではなくて、「かしこくない」「いじわる」のかばん語ですね。
恋愛ソングがあまり好きではない僕ですが、この曲は自己嫌悪の要素が強くて共感できるので好きです。

3位:クリームパンはそれっきり

こんな歌詞、こんな曲です。
この曲は僕が大学の助手だった頃に出たのですが、そのあと失業してしまって、それまで大学院とか研究員とか助手とか大学の中でしか生きてこなかったのがいきなり社会の荒波のなかに放り出されて、面接を受けては落ちて、受けては落ちてを繰り返していたころによく聴くようになりました。歌詞はまず用事があって家を出ようとしたところでちょっとした失敗をしてしまい、それで一気に家を出る気力を失うというところから始まります。

ヘアゴムを取りに戻って
それっきり戻れない
袖の格子に引っかけて
倒れたトルソー

床一面に散らばり落ちる
ビーズとわたし
それっきり戻れないなあ……
できないことを考えてむなしい

忘れ物を取りに戻って、そこでトルソーをひっくり返してしまい、床一面にビーズをぶちまけられる。ビーズと一緒に自分までバラバラに散らばってしまったような気持ちになる。もうすっかり嫌になってしまって、改めて出かける気力は残っていない。これは1番の歌詞ですが、2番だと今度はココアを床にこぼしてしまっています。ビーズをばらまくのも、ココアをこぼすのも、どちらも後始末が大変で、やる気を削ぐような出来事です。
そんなわけですっかりやる気を失ってしまった自分に、語りかける声がします。

スキレットで透明なぐる小人のデューが
今度こそ、がんばれば?と言った

スキレットは鍋の一種。小人のデューという名前は、もしかしたらフランス語で「神様」をあらわすDieuから来ているのかも知れません(絵恋ちゃんはフランス語を習ったことがあるらしいので)。いずれにせよ、そのおせっかいなデューは「今度こそ、がんばれば?」と無責任に言い放ちます。こっちはもうこれ以上がんばれないというところまで追い詰められて、ついに限界を迎えてしまったというのに。うつ状態の人に「がんばれ」と言ってはいけないという話はよく聞きます。そういう、ともすれば人を傷付けるかも知れない言葉を、デューは平気で投げかけてくる。しかも「今度こそ」というからには、この歌詞の主人公は何度もがんばれなくなるような失敗を重ねているのでしょう。我慢の限界です。もう何もできません。

アラームぽんと止めて
クリームパンを食べて
行ってきますのドアが
こわれてしまいました

大事な用事に遅れてはならないとアラームをかけていたのでしょう。出かける前にはちゃんと朝食を食べておかなくてはと、クリームパンも用意していたのでしょう。でもアラームを止めて、クリームパンを食べて、もうそのあと出かける気力は残されていません。「行ってきますのドア」が壊れてしまったのです。もう「行ってきます」する気にはなれません。ちなみに2番では「ただいまのドア」も壊れてしまいます。もうどこへも行けないし、戻る場所すらありません。居場所がどこにもない。
しかしそんな絶望しきって病んでしまった自分のことを、一方で冷たく突き放すべつの自分がいます。

狂ったふりをして
割ってもいい鏡を選ぶ
いつまでそう生きるの?
王様が変わっても
わたしきっと きっと気づけない

結局、病んでしまった自分も実は「病んだふり」をしているだけなんじゃないか。打算的に動いているのではないか。ストレートな自問自答だけに、ある意味で「小人のデュー」が投げかける言葉よりも鋭く胸に突き刺さってきます。「いつまでそう生きるの?」が自分で自分に向けられた言葉だとすれば、とても悲しいことです。
ちなみに同じ箇所が2番では、

  つらいつらいふりして
 泣いてもいい日取りを選ぶ
どうしてそうずるいの?

となっています。つらい思いをしている自分さえも、実は「泣いてもいい日取り」を計算しているとてもずるいやつで、しょせんは「つらいふり」をしているだけなんじゃないか。自問自答の刃はなおのこと鋭く、痛くなっています。
続く「王様が変わっても」は、2番では「気候が変わっても」、また最後のサビでは「時代が変わっても」。(もしかすると時代が平成から令和に代替わりしたことを歌詞に取り入れたのかも知れません。単なる深読みですが。)いずれにせよ、世の中が大きく変わってしまっても、わたしにはもうやり直す気力なんて残されていないんだ、という半ば自嘲的な、つらい歌詞です。
そして最後のサビではついに、

スタンプぽんとおされ
 世界がパンと消えた
行ってきますのドアは
 もう場所もわからない

と、世界がまるごと消えてしまいました。外の世界とのつながりを保つはずだった「行ってきますのドア」は壊れるどころか、もはや場所さえわからなくなってしまっています。
フル音源で聴いてみると、このあとの部分には、上にリンクを貼った歌詞ブログには載っていないものの、

アラームぽんと止めて
………………………………………
行ってきますのドアは
………………………………………
子猫をぽんとなでて
……………………………………
ただいまのドアは
………………………………

という、1番と2番のサビが途中で消えて、途切れ途切れになってしまう箇所があります。もう何もかも消え去って、ダメになってしまったような寂寥感が漂い、なんともいえない悲しさがあります。
自分もこの歌詞のように小さな失敗を重ねては面接に行けなかったり遅刻したりして、そのたびに自分の中の「行ってきますのドア」を見失って外へ出られなくなってしまっていました。そしてそういう病んだ自分に対して、頭の中にいるもう一人の自分は「今度こそもっと頑張ってみろよ」とか「うつ病だなんて言ってるけど本当は怠けてるだけなんじゃないの?」とか、冷たい言葉を容赦なく浴びせかけてきます。そういう絶望的な気持ちで、消えてなくなってしまいたいと思いながら聴いていた曲でした。

2位:とばっちり塵ボーイ

この歌もやっぱりいまの自分の状況、うつで無職で親のすねかじりで、という状態をそのまま言い表されたようで好きになりました。基本的にタイトルの通りダメな男の子の歌です。まず歌い出しから、

パパが玄関出る音聞くまで寝たふり
釘みたいな太陽が射す
起きる必要なんかは全然ないけど
そうだな
なんで起きるんだろう。

と、ダメダメな感じです。いま僕は一人暮らしですが、父親が古いタイプのおっかない人なのもあって、もし実家暮らしだったら朝に父親と顔を合わせるのは気まずいだろうと思います。なので自分もやっぱり寝たふりしてやり過ごそうとするでしょう。そこに残酷な太陽がさしてくる。無職でひきこもりで外が晴れていると、こんなに晴れているのに自分は何もしていないという謎の罪悪感に襲われがちです。そしてこの歌の主人公のように、どうせ何もしないしできないのなら起きる必要なんかないんじゃないか?と自問自答してしまいます。

寝ても覚めても情けないことに変わりない
今年度こそ良い子になりたい
がんばりたい がんばりたい がんばりたい

実際、寝ているときも目覚めているときも常に自責の念にかられて、いい夢を見たら目覚めてから現実との落差につらくなるし、悪い夢を見たらふつうに落ち込むし、寝起きはしんどいです。このあいだ母親とのラインであまりに「こんな息子で情けない」「こんな息子で申し訳ない」と言い過ぎて、自虐はやめろとたしなめられたのですが、無職のひきこもりは自分がいちばん自分のことを情けないと思っているものです。
自分のことを情けないと思ってしまうのは、父親と顔さえ合わせられないような生き方をしてしまっているけれど、本当はもっと良い子でありたいという気持ちが強いから。3位の「クリームパンはそれっきり」で書いたように、病気その他のために「がんばれない」状態でも、というかそういう状態だからこそ、ひとは心のなかでは「がんばりたい」と強く強く思っているのです。頑張りたいけど頑張れない自分が情けなくて情けなくて仕方なく、そういう気持ちが煮詰まっていくと、うつになり、死にたくなります。2番の歌詞には、

花びらをちぎって占うアプリで
どっちに行くか決めたいな
このまま死んじゃうかドトール入るか
そんなことも自分じゃ決められない

という部分がありました。『うつ病九段』でも描かれていましたが、うつになるととにかく決断ができなくなって、目の前にあるお店に入るかどうかも決められなくなりがちです。それがこの歌のなかではカジュアルながら希死念慮につながっていく。「このまま死んじゃうかドトール入るか/そんなことも自分じゃ決められない」という一節は僕のなかですごく響いた、いわばパンチラインでした。実際に自分もこれぐらいの軽々しさで、いつ死んでやろうかとそればかり考えているような人間なので。(そのせいで警察に通報されて、部屋におまわりさんが来てしまったこともあるのですが。)

1位:きみが展覧会を開いても

1位は結局「きみ展」かよ、という感じですが、そうです「きみ展」です。やっぱりこの歌詞の完成度は半端ではない。知らない人のためにリンクを貼っておくとこんな歌詞でこんな曲です。絵恋ちゃんソロとしてではなく、バンド編成の「Carbonic Acid」のアルバム『エアーパッキンガール』中の一曲として発表されたもの。ちなみに表題曲「エアーパッキンガール」にも、「ママもパパも死なない国はないの?」といった、心を打つキラーフレーズがありますが、ここでは「きみ展」の話を。
『地下アイドルの絵恋ちゃん』収録の対談では、本人のなかではオタクと地下アイドルの関係性を歌ったもののつもりで作詞したと言われていましたが、バイト仲間とか、ジャンルこそ違えど一緒に下積みしている関係性ならどんな関係でもあてはまりそうです。そういう一緒に下積みをしているなかでも一方だけが出世していきそうで、自分のほうはいつまでも下積みのままかと思うとみじめな気持ちになります。僕も出版社でバイトしていたとき、自分もそうだけど周りが研究者志望の大学院生ばかりだし、たまに院生じゃない人がいたかと思うと美大出身で個展なんかもやっている人だったりして、おなじような劣等感をいだいていました。
この歌ではそういう感情が、いまは同じ場所にいるけれどいつか展覧会をひらくかも知れない「きみ」と、ずっとアンダーグラウンドに甘んじてしまうであろう「ぼく」の関係であらわされています。サビの歌詞を引用しましょう。(サビは1番、2番、最後のサビいずれも同じ歌詞です。)

きみが展覧会を開いても
ぼくと過ごしたエピソードは音声ガイドじゃ聞けないし
きみが展覧会を開いてもぼくと居たアンダーグラウンドは図録にも載らないんでしょ

いずれきみが展覧会を開くことがあっても、ぼくと一緒だった下積み時代のことは一切無視されてしまうだろう。一緒に過ごしたエピソードがあってもそれが語られることはないし、同じアンダーグラウンドの世界にいてもそのことは表に出ない。この歌のなかの「きみ」は、音声ガイドがついたり図録が販売されたりするということは、なかなかの規模の展覧会をひらけるポジションまで行ってしまいそうなのでしょう。よく長いことくすぶっているオジサンが「昔は○○と同じライブハウスに出ててさあ」とか「いま有名になってるけど××は若い頃こんなやつでさあ」とか言っていたりしますが、この歌の「ぼく」はもっと繊細で、一緒にアンダーグラウンドにいる「きみ」がいつか出世する日のことを今のうちから気にしています。繊細というか鬱屈しているというか、そういう心情が共感をさそうのでしょう。共感をさそう歌詞はほかにもあります。たとえば1番の、

親にもなれないとは思わなかったが
自分の人生かならず主役じゃないよ

という部分。絵恋ちゃんの楽曲でも絵恋ちゃん自身の作詞ではない「結婚しないとナイト」や「就職しないとナイト」では、こういう"ちゃんとした大人"になれなくて両親に合わせる顔がない、みたいな悩みをコミカルかつ自虐的に歌っているわけですが、「きみが展覧会を開いても」や「とばっちり塵ボーイ」では同じ悩みがもっとストレートな、心にグサッとくるかたちで歌詞になっています。この箇所は『地下アイドルの絵恋ちゃん』収録の対談でもFukiさんが挙げていましたが、劣等感や閉塞感が凝縮されていて本当にいい歌詞だと思います。
僕なんかはこの一年ほどで2人いる妹がどちらも子供を産んで、3人きょうだいのなかで親になれなかったのは自分だけなので、余計に刺さります。
この箇所が2番になるとさらに救いのない、こんな感じになります。

初詣も欠かさず行ってるけれど
神様は一度もレスくれないよ
人にもなれないとは思わなかったが
自分の人生悪役 やりきれないよ

僕のうちは特に宗教上の理由とかもないのに初詣に行かない家で、東京に出てきてから初めて行くようになりました。それもたまたま2008年の上京から2015年の博士課程2年まで東伏見(すぐ近くに東伏見大社という大きな神社がある)に住んでいたから行くようになっただけで、あまり信心深いほうではありません。人混みが苦手だから1月中旬とか、下手したら2月になってから初詣に行くぐらいいい加減です。でも日本に住む多くの人がそうであるように、日ごろは神様のことなんか考えることがなくても、初詣なんかでお参りするときには、占いを見るとついつい気にしてしまうみたいに、「いい一年になりますように」とか「この願い事がかないますように」とか願ってしまうものです。しかしおみくじで凶をひこうが大吉をひこうが自分の人生たいして変わらないし、万が一なにかいいことがあったとしても「これは初詣で拝んだ神様のおかげだ!」なんて思う人はすごく少ないでしょう。神様はいくらお布施してもアイドルのようにはレスをくれないものなのです。
そういうわけで神様からレスをもらえない「ぼく」は、親になれないどころか「人」にさえなれない。この気持ち、よくわかります。カフカの『変身』ではないですが、何もできない、何も生み出せていない自分がなにかもう人間ではない、ゴミ虫のような存在に思えてくることがあるのです。「自分の人生は自分が主役なんだからがんばろう」なんて応援ソングはいうけれど、自分では自分の人生が主役のそれだとはとうてい思えないし、主役でないのはもちろん、脇役どころか、悪役かも知れないとさえ思えてきます。自分の人生をダメにしている悪役は、他ならぬ自分自身なんじゃないか、と。
そんな「ぼく」の鬱屈した気持ちは、まだ展覧会こそ開かれないものの、いつか出世するであろう人を同じバイト先に見付けたことで頂点に達します。

ぼくのバイトの あの子調べたら
大手事務所 公式マークが付いてました
ぼくはいつでも 最初に生ビールを頼むことはできずに 愛を求めました

バイト先の同僚の名前をふと検索してみたら、ツイッターでも見付かったのでしょうか。大手事務所所属だとプロフィールに書かれているうえに、公式マークまで付いている。同じバイトのはずでも、向こうはいつか表舞台に出ていくかも知れないのに、自分はずっとアングラのまま。やりきれない気持ちが爆発します。
その次の「ぼくはいつでも 最初に生ビールを頼むことはできずに 愛を求めました」という歌詞が僕は大好きで、「きみ展」のなかでもここを聴いたときに絵恋ちゃんって本当にすごい才能の持ち主だなと思いました。自意識が邪魔をして、みんなと一緒になれなくて、「とりあえずビールで」がぼくはどうしても言えない。その代わりにハイボールでも熱燗でもなく「愛」を求めてしまう。そのぐらい「愛」に飢えているのです。展覧会も開けない、親にもなれない、人にもなれない「ぼく」は、何もぜいたくは言わないから、ただひとつ「愛」だけがほしかった。とても悲しい一篇の物語のようです。
僕は音楽のことに関してはまったくの素人なのでこの記事もあくまで歌詞の感想だけを書くつもりで、メロディとか歌唱とかについて書く気はなかったのですが、この箇所は絵恋ちゃんの歌い方も素晴らしいのです。「ぼくはいつでも最初に生ビールを」あたりは人前で強く出られない気弱な「ぼく」の性格が出たような抑えた歌声なのが、「頼むことができずに」を転換点にして「愛を求めました」で爆発します。僕の音楽に関するボキャブラリー不足のためにこれ以上うまく語れないので、気になる方は実際に曲を聴いてみてください。

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