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西洋音楽の普遍性信仰とその功罪

SNSを見ていると,「どんな人でも音楽の美しさに気づくことができる力をもっている」とか「音楽は普遍的な芸術であり…」とかいった発信をよく目にする。そして,このような発信をする人は多くの場合西洋音楽の演奏家だ。投稿全体の文脈を加味すると,発信者のいう「音楽」とはどうやら「西洋音楽」のことのようだ。彼らにとっての「(西洋)音楽」とは「リズム・メロディ・ハーモニー」によって構成されるホモフォニックな拍節音楽を中心とする音楽様式である。これにルネサンスのポリフォニーやドビュッシーの印象派的作品群を加えていい場合もあるが,声明やケチャやジョン・ケージの《4分33秒》を加えることは想定されていない。ここでの「音楽」とはある時期にヨーロッパ地方で流行した「西洋民族音楽」のことである。そしてこの「西洋民族音楽」は「普遍的芸術」という言葉で取り扱っていいことになっているようだ。

SNSで西洋音楽の普遍性をアピールする人々の主張の根幹にあるのは,「西洋音楽の素晴らしさを万人に伝えたい」という博愛的で慈悲深い精神であり,そこには一点の曇もない。投稿者等はきっと素敵な人達なのだろう。だからこそ,彼らの投稿には多くのいいねや賛同のリプライがつく。発信者がレッスン業をやっている場合,彼らは生徒から良い先生だと認識されているのだろう。西洋音楽愛好家として,西洋音楽教育に関わる彼らの資質と精神には敬意を覚える。

一方,西洋音楽に対してそこまで興味を持っていない人々がこのような西洋音楽コミュニティを外から眺めるとどのような感想を持つだろうか。

西洋音楽の専門家が西洋音楽の普遍性をうたい,近い属性の人々がそれを称賛する。SNS上における西洋音楽コミュニティは西洋音楽普遍神話を巡るエコーチェンバーそのものだ。このコミュニティにおいて,西洋音楽は「普遍的芸術」であり,「誰しもが愛好できるもの」として語られている。そしてそこに明確な根拠ない。コミュニティの構成員たちも,そこに根拠を求めたりはしないようだ。「世界中で数百年前演奏され続けてきているのだから普遍的なのだ」とするロジックは頻繁に提示されており,この言説を内側から疑う人は少ない。

しかし,「誰しもが愛好できるもの」であるはずの西洋音楽は,今日の日本で広く親しまれているとは言い難い。西洋音楽がその歴史の中で発明した機能和声や拍節構造はポピュラーミュージックへと吸収され,それこそ多くの人に愛好されてはいるが,クラシックの演奏会に新規顧客が参入している様子はあまり確認できない。ポピュラーミュージックが大きな市場規模を獲得しているのに比べ,クラシック音楽は市場規模の拡大からは程遠いようだ。「普遍的」で「誰しもが愛好できる」はずのクラシック音楽が,なぜこのような窮地に立たされているのだろう。

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