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クラシック演奏家のための「長谷川的プログラムノート論」①概論編

多くのクラシック演奏家は,自分の演奏する曲についてのプログラムノートを書いた経験があるはずだ。

とりわけ僕は,普通の演奏家以上に多くのプログラムノートを書いてきた人間だと思う。音楽教育学という学問を専攻し論文を書いたりしていたので,他の演奏家仲間に比べて文章を書くのが得意な方だったということもあり,友人のリサイタルにプログラムノートを寄稿したり,他人が書いた文章の添削を依頼されたりしてきた。

つまり,プログラムノートについて論考する機会はそれなりに多い方だったということだ。このnoteは,その経験を経て得られた「長谷川的プログラムノート論」について示したものである。

「プログラムノート“論”」とあえて示していることからも分かるように,このnoteは,「プログラムノートを手軽に書くためのテンプレートやhow to」を示したものではない。

なぜなら,現状多くのプログラムノートが「作曲家の出自→初演の情報→曲の形式や様式の説明」という謎のテンプレートに無意識的に束縛されており,その束縛が原因でクリエイティブな文章が生まれにくくなっているように感じるからである。

大体テンプレートに沿って書かれた文章って「書かされた感」があって読み味が悪い。取扱説明書って1行目から読む気失せるじゃないですか,あれと同じ感じがする。僕は村上春樹さんの小説が大好きなんですが,なんで好きかというと,ストーリー展開が面白いとかじゃなくて日本語の読み味が最高に心地良いからなんです。誤解を恐れずに言えば,僕は彼の小説を標題音楽的というより絶対音楽的に楽しんでいるということになる。そして文章に関わる多くのテンプレは,絶対音楽的な読み味を無視した構造になっているのである。なので新たなテンプレを提示しても意味がないと思い,俯瞰的な「論」を語ることにしました。テンプレやhow toを期待して読み始めた方,ごめんなさい。

また,「長谷川的」という言葉は,このノートに書いてあることがプログラムノートを書く上での唯一絶対の正解ではないということを示している(当然ですが)。そもそも音楽に言葉でアプローチするという営為には美学的・哲学的な議論が不可欠であり,人によっては「プログラムノート論だなんてなんと愚かなことを」と思う方もいらっしゃるだろう。僕もどちらかというとそう思う人である。

しかし,「演奏家が自分で演奏する曲に対してプログラムノートを書く」という慣習自体はしばらく続きそうだし,何より僕がプログラムノートについての相談を受けるたびに毎回同じ説明をするのが面倒になってきたので,「とりあえずこれ見てね」と言うための媒体としてこのnoteを作って公開しておこうと思った次第である。

前置きが長くなってしまいました。つまりこのnoteは「長谷川がプログラムノート執筆について相談を受けた際によくする個人的な提案」を初心者に向けて言語化したものです。よければご覧ください。

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