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意思は一体どこからやってくるのか

前回のnote「魂は歳を取らない」の中で成長と老化に関して触れた。

身体は意思の如何に関わらず粛々と老化していく。

では意思の力は暮らしを豊かにする上で無力なのかと言えばそうでも無い。

むしろ意思の強さは暮らしの質に大きな影響を及ぼす。


、、、、、どうやらまた荒唐無稽な自論のフルコースになる予感しかない。

「時間無駄にしたけどユーモラスだったなっ♫」とお許しいただける方のみ読み進めてもらいたい。


時を戻し候う。

例えば「お付き合いしたい」と言う意思が弱ければ恋愛は成就しないだろうし

「観たい!」と言う意思が無ければライブのチケットは手に入らないはずだし

「食事を楽しみたい!」と言う意思が無ければ毎日の食卓はインスタントラーメンが並び続ける。

割と地獄である。

ではこの「意思」とやらは一体どこからやってくるのだろう。

どうやらどこか別の宇宙の神様から受信しているわけではなさそうだ。


コップの水理論と言うものがある。

一つのコップに水が半分入っている、
この事実をある人は

「たったの半分しかない」と不足感を感じ、不貞腐れながら飲むかもしれない。

一方もう1人の人は
「まだ水が半分もある!」と希望を感じ、感謝を抱きながら飲むかもしれない。

もし砂漠で彷徨い歩き続けた人が居たら
「やった!飲める水がこんなにある!」と感涙し、たいそう大事に味わうだろう。

事実は同じでも私達は三者三様の意思を持つ事が出来る。

いわば意思とは「結果」であり、
因果の手前、つまりプロセスは「選択」なのだ。

そして選択をするにあたり無意識に使っているのは「こうで在りたい」と言う基準である。

企業や会社で言うところの理念、クレドといった具合だ。

個人に置き換えれば「信条」や「志」となるだろう。

意思は信条のふるいに掛けられ選択される。
意思の源泉は自身の信条なのである。

人は信条と選択次第で、鬼にも仏にもなる。
生物学的には同じ人間という事実は変わらないのにも関わらず。

どんな信条を抱き、どんな意思を選び
どんな言葉を使い行動するのかで人生は何色にもなる。

全く人とは不思議で魅力的な生き物だ。


かつてマザー・テレサはこんな言葉を残した

思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、
それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、
それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、
それはいつか運命になるから。


こんなに寒いのにチョコミントアイスが食べたい。全く人間は不思議な生き物だ。

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